つるまうかく

群馬在住ヲタクのネット書斎

「ファンでいる」というキャッチボール

少し前に、こんなエントリを書きました。

tsurumauy.hatenablog.com

ただ、長くファンでいることの難しさも感じています。

 

ファン歴の長い短いに優劣や貴賤はありません。
ナナシスのライブ冒頭のMCでよく言われる
『支配人(ファンの総称)はみんな等しく支配人です』
という言葉がそれをうまく表現していて、とても好きな言い回しです。
だから誰がえらいとかはないのですが、ただ、長年ファンで居続けたということは経験ですし、すごいなと思います。

 

一つのものやひとりの人を応援し続けたり、ファンで居続けるのって、相当なことだと思うんです。
毎年、それどころか毎日、新たなものが生み出され、すさまじいスピードでかけていくこの時代。
気移りをするのが普通です。
それが続かないことは、別に薄情なことではないんです。
そういった誘惑に靡くことなく、別の選択肢を選ばず、ずっと一つのものを追えるのって、ある種の真面目さ、ストイックさなんだと思うんですよね。

 

ただ、それでも一つを追うのって難しい。
なぜかというと、向こうも変わるし、自分も変わるから。

これが、作品や物語なら、ひとつのファンで居続けることって、割とある気がします。
それはなぜかというと、物語が完結していて、向こう側が変わる余地がない場合が多いから。
それが嫌いになったり、思い入れが薄くなったりするのは、たぶんファンで居るこちら側の心が変わったからなんだと思います。

キャラクターも、よっぽどのことがなければ向こうは変わりませんから、これに近い存在なのかもしれません。

 

ただ、生身の人は違います。
同じ時間を生きている。
何らかの形で、常に変わり続けているはずなんです。

年齢も変わります。
万一、年齢が変わらないという人でも、経験年数は増えていきます。
ときを重ねることで考え方も変わります。
立場も変わります。
趣向も変わります。

出会ったときから何も変わらない人って、たぶんいないんです。
『好きです、ファンになりました!』と言った瞬間から、今に至るまで、きっとその人はどこかが変わっているはずなんです。
でも、今でもファン。
たぶん、その間に、こちらも向こうも、少しずつ何かが変わっているはずなんですよ。

テセウスの船(変わり続けるものは同一なのか、という命題)じゃないですけど、変わりつつあるのになぜファンで居られるのか。

そのキーワードは、”キャッチボール”なんじゃないかと思うのです。

 

向こう側は、何かを産み出すクリエイターとして。
こちら側は、それにこたえて感想を言うファン活動として。
それぞれ、ボールを投げあう。
直接やり取りができない場合もあるけど、とにかくボールを投げあう。

投げているうちに、距離が近づくこともあれば、遠くなることもあるでしょう。
ボールが大暴投になってはるか後方に逸れていったり、うまく投げられずにワンバウンドしてしまうこともあるでしょう。

そんなことを繰り返して、なんとかかんとかキャッチボールをしていく。
キャッチボールを続ける限りは、そこでつながっていられて、好きという気持ちも継続する。
ファンであるという状態が継続する。
そういう捉え方ができるような、気がしています。

 

BUMP OF CHICKENバンプの曲で「キャッチボール」という曲があって、これがいい解釈だなと思うんですよね。
曲の中でキャッチボールをしている二人のうち一人が、
コントロール無視のカーブを投げるんです。

その時、「ぼく」がどうするかなんですよね。

「とれるわけないだろう」と諦めるのか。

「とれるわけない球も呆れながらも必死で追う」のか。

 

たぶん、その球を追えなくなったら、キャッチボールが続けられなくなったんだな、と思います。

 

 

今の時代、わりと正義とか、正しいとか、真面目とか真っ直ぐだとか、一途だとか。
そういったものが美徳とされ、ファンにもそれが求められるような風潮があるように感じています。
それは確かに美しいし、魅力的だし、あるべき姿なのかもしれません。

でも、それはあくまで理想であって、現実はそこまでできないですよね。
100%のことをできることなんかありませんし、きっと誰もが、色々な者の妥協のうえで成り立っている。
それはきっと、ファン側だけではなく、クリエイトする側も。

だから、清廉潔白だとか、聖人君子でなくていいと思うのです。
思うがままに、自分の感情に素直でいいと思うのです。

キャッチボールをしっかり返してくれる人とその縁をつなぎ続けて、それが自分の人生に明るい要素になれば、それでいいんじゃないかなと。
今はそう思っています。