ふと「推したりファンになることは、『祈るように愛すること』じゃないか」という解釈が思い浮かんだので、忘れないうちにブログにしたためておこうと思います。
米津玄師の「Lemon」を頭の中で再生していた時の出来事なんですけど、私はこの曲のサビ、
『あの日の悲しみさえ あの日の苦しみさえ』
の後を
『祈るように愛してた』
だと思ってたんですよ。
それで、米津玄師すごい言い回しするやん!やるやん!と思っっていたら、間違ってました。
正しくは
『そのすべてを愛してた 』。
しかも、歌詞の中に”祈る”という単語すら使われていません。
はたして、私のLemonはどこから来たのか・・・・
色々な要素が絡み合って出てきたワードなので、もちろん早々と起源とか著作権的なものは、投げ捨てておきますけど。
なんか、この言い回しが、すごくしっくりきたんですよね。
愛といっても、それは色恋沙汰だけではなく、友愛とか、隣人愛とか、まあ様々なものを大事にするという意味がありますよね。
推しごととかファン活動でいえば、『好き』という素直な気持ち、ということでいいと思います。
そして、この”祈り”という要素。
私たちが誰かを応援するときに、この要素、入ってませんか。
その人がやることを全肯定したり、常に味方でいようとしたり。
信奉者みたいな存在になったり、敬意をもって崇めたり、自分が辛いときに元気をもらったり。
ここで『宗教』というワードを出してしまうと一気に胡散くさくなるというか、今の社会には馴染まない部分があると思うんですけど、私たちは応援している人を神格化するみたいな感じって時にあったりするじゃないですか。
なんか、その感じが、この言い回ししっくりくるなあと。
『萌え』に対する”抱きしめたくなる衝動”に通ずるような、わりとドンピシャな言い回し来たぞ、と。
もちろん、推し方は人それぞれ、十人十色、千差万別です。
ただ、『推し』という言葉がなかなかしっくり来ず、自分なりに分析してなんとか落としどころを見つけて、それでもなお何となく据わりが悪かったところに、わりとしっくりくる言い回しでした。
今日の考えのまとめ。
『推すことは、祈るように愛すること』。
わずかでも、それある!と思う人がいたりしたら、少しうれしいですね。
P.S. 筆者は特に宗教的思想はないので、とりあえず『空飛ぶスパゲッティ・モンスター教です』ということにしています。