つるまうかく

群馬在住ヲタクのネット書斎

私にとっての推しの存在

私は、どんな「ファン」なのだろう。
少し前に、宇佐見りん先生の『推し、燃ゆ』を読んだときにも少し考えたけれども。
逆に、自分にとって、好きな人、応援している人・・・一般的には『推し』と形容される人は、どんな存在なのだろう。

 

ファンから見た推しの存在は、多様だと思うのです。
「できるだけ近づきたい」とか、「できるだけ理解したい」とか。
もしかすると、「お嫁さんにしたいの好き」だったりとか。
そして、どの考え方も、否定されるものではありません。

 

私の場合、必ずある感情は、『尊敬』です。
ある種の"畏敬の念"と言ってもいい。
表舞台で戦う人は、必ず何かのタレント(=才能)と、それに見合うだけの努力と、そこに必要とされる理由を持っている、と思っていて。
それは自分にないものだから、純粋に”すごい”と思う。

それに伴って、私はその人と、同じステージに立つことすらおこがましい、という考え方でもあるんですよね。
ファンとして、取り組んでいることが何らかの形で届くことは、あるかもしれない。
けれども、『棲む世界が、違う』。
だから、根源的な意味で、手が届くことはない。
むしろ、届いてはいけない。

昔、タレントの伊集院光さんが、
プロ野球選手の人は、全員がすごい人だから、どんなに番組とかで仲良くなっても、『○○選手』という呼び方しかできない」
ということを言っていたのですが、その感じに近いものがあります。
その話には「ただし山本昌さんは除く」という例外(オチ)があって、それもまた面白い話なのですが。

 

二つ目として、”元気をもらえる”存在であるということです。
これは説明するまでもないことですが、生み出してくれる様々な作品だったり、時には行動だったりで、沢山の元気をもらっています。
応援することですら、まわりまわって自分の元気ややりがいになっている。

最近特に感じるんですが、本当に、ファンに寄り添ってくれる人が多いのが、うれしいし、有り難いことだなあと思います。

自分の活動が、みんなの生活の中に少しでも入ってくれるだけでうれしいと言ってくれたり。
ファンが満足するために何をすればいいかを考えたくれたり。
何かあったときは、引っ張り上げる力に、光に、翼になると言ってくれたり。
生きろよ、死んだら私が困るんだからな、と言ってくれたり。
表現は様々ですけど、本当にファンのことを思ってくれる人ばかり。
なんだろうね、誰のファンであっても、ファンは果報者だと思いますよ。

そして、もらった元気や思いは、その人に返すことはできないんですよね。
返そうとしても、更に大きな元気をもらってしまう。
もどかしいけれども、そんだけすげえんですよ、光り輝いている人って。
そういう存在なんです。

 

三つ目、これが最後かもしれませんが、”共に歩める”存在であるということ。
おいおい、最初に書いた『棲む世界が違う』と矛盾するじゃないか、ガチ恋か?
と思われるかもしれませんが、ちょっと違うんです。
どちらかというと、二つ目に近い考え方です。

誰かを好きになって、応援して。
それがもし終わりを迎えたり、節目を迎えたときに、何も残らないのは、ちょっと悲しいなと思うんです。
そういった、自分がしてきたことの中で、少しでも自分が前に進んだり、階段を一段でも上ったりできていればいいなと。

推しと肩を並べたいわけじゃない。
でも、歩幅は違っても、少し成長したい。
もちろん、才能がないから、成長の速度は遅いけれども。
精一杯、自分のできる努力をしたい。
そのことについては、好きな人に恥ずかしくない自分でいたい。

何らかの形でトップを目指したり、常に上昇志向のある人ばかりに惹かれるのは、たぶんそういう意識もあるんだろうな、と思います。

 

 

今回、特に特定のこの方、というのはふまえず、漠然と”応援している人”を思い浮かべて書きました。
あくまでも基本路線は、ということではありますけれども。

こうしてみると、自分なんかは全然ストイックというタイプでもなければ、ガチ恋という形でもないんですよね。
ただ、アプローチが少し特殊だったり、どこか引いている部分、逆にどこか距離感がおかしい部分があって、ちょっと変わったファンだと捉えられることがあるのかもしれません。

迷惑をかけることはできるだけしたくないものですが、自分の個性みたいなところが出てしまって違和感になってしまうのは、まあ仕方ないかなとも思いますので、そこは変わってるなー、という感じに片付けえてもらえれば、と思います。