つるまうかく

群馬在住ヲタクのネット書斎

好みの定義とネット人格と

推し変、推し増し、ファンになります、ファンでなくなります。
誰のファンです、誰が推しです。
好きな作品はこれです、この作品はちょっと合いません。

 

個人的な好みを、公開しがちな時代。

 

そうなったのはSNSの流行がきっかけ・・・と、あんまりネットに明るくない人は言うかもしれませんが、私が知る限りでは、個人ホームページが流行したその頃から、その傾向はあった気がします。

この流れになるのは、ごく自然なことで。
普通の生身の生活だと、なかなか自身の好みの話とか、あけっぴろげにしないじゃないですか。
顔を見てコミュニケーションするし、会話もしますから。
ただ、ネットでは顔がない。
絵が上手い人ならそれをアイコンにできたりはするけど、差別化が計れない人が大半。
しかも、かつては今に比べて自分の顔を”さらす”ことにやはり不安があって(その考えは今でもそれでいいと思いますが)、写真で認識できるわけでもなかった。
だから、自分はこういう人間です、という定義を付けるために、『プロフィール』が必要だったんだと思います。
前略プロフとか、流行りましたしね。

昔のネットって、刹那的なものだったなあと思います。
ネットでの人格が未来永劫あるわけではないと思っていた。
就職したらそのネット人格はリセットするのかな、みたいな感じでとらえていました。
実際、「働き始めたのでネットやる暇がないです」って人がめちゃくちゃいました。
今思えば、あれはネットのコミュニティから会社や社会のコミュニティへの移行だったのかな、と思ったりします。

 

ただ、思ったより情報社会が進んでいった。
ネットの人格は、じつは途絶えなかった。
自分の場合は、名前自体は変わっているものの(厳密には使い分け)、人格としては、学生だった頃から今まで、ずっとつながっていたりします。
これを遡っていくと、個人でサイトをやっていた2006年・・・どころか、厳密には2004年とか、2003年の終わりくらいまで遡るんですよ。
つまり、このネット人格って、もう18年くらい継続しているんですよね。
更に不思議なことに、それが今は、なんと現実(生身)でもその人格で接することがありえる。

 

そこで、最初の話に戻るんですけども。
好き嫌いって、変わらないものもあるんですけど、変わることもあるんですよ。
頻繁に変わっていたら、それこそ「移り気の多い人だなあ」と思うかもしれませんが、例えば私の場合だと、その人格で18年、ネットに漂っているんです。

ポケモンルビサファまではわかるけど、その後は全然わからない。
あれほど数を読んでいたラノベも読まなくなってしまった。
ネトゲスマホに代わった。

そう、変わるんです。
好き嫌いも、興味関心の対象も。
18年経てば、18歳が36歳になる。
18年前に好きだった作品は、18年後の今、続いていますか。
続いていたとして、その骨格はそのままですか。

まして、世の中のスピードがどんどん加速していっている今、何かをずっと好きでい続けることがとても難しくなっているように感じます。

 

ある時から、私はTwitterのbio欄に好きなものを書かなくなりました。
怖くなったんですよね。
『Aというものが好きな人』と認識されていたのに、時間が経って”Aというものが好きな人でなくなる”ということが。

 

なんだろうな。
最近色々見て、好きになること、好きでなくなることについて考えて。
そしたら今日、それがまさに自分も他人事ではないことを思い出して、突き付けられて。
何が好きとか、何のファンなのかとか、示さないほうが楽というか、後々考えるといいのかもしれないですね。
でも、それを明言することで楽な部分もある。

その時々で波ってあるじゃないですか。
好きなものであっても、今はちょっとお腹いっぱいですってこともあるし、いや、それはと思うこともある。
総じて好きだったとしても、それが常に一定だってことはそもそもなくて。

ゆらゆらゆらゆら、常に揺れているんだと思うのです。

 

自分が一番わからないから、しょうがないんですけどね。
結論を出すべき話でもない。
ただ、それで考えすぎて袋小路に入ってしまって、何もできなくなってしまうのは勿体ないから。
そこは、自分に都合よく、その時々で何が好きかを言ったり、逆に言わなかったりして、ケースバイケースでやっていくのでいいのかもしれないな、と思いました。

クレバーというか、ずるがしこいな生き方なのかもしれませんけど、それでいい。
私は、”ズッコケ三人組”とか”ぼくらシリーズ”的なずるがしこい方面での頭のよさ、嫌いじゃないです。