つるまうかく

群馬在住ヲタクのネット書斎

「何も書けねぇ」にならないために

かつては多くの人が持ち得ていなかった「自由権」。
これまでの歴史の中で、人々は支配者層から主権というものを勝ち取りながら自由権も獲得していき、その中で発言することができる「言論の自由」や、様々な形で意見を公表する「表現の自由」を得てきました。

日本でも、大日本帝国憲法では自由権が法律の範囲内で認められましたが、この法律の範囲内というのが曲者で、実際は治安警察法治安維持法によって取り締まりを受けることになります。
実際の意味でのこれらの自由が認められたのは戦後の日本国憲法公布で、

  • 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利(第13条)
  • 思想及び良心の自由(第19条)
  • 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由(第21条)

が尊重または「侵してはならない」と定められました。

その自由を保証するために、検閲については第21条で「してはならない」と規定されています。

その反面、

  • 自由及び権利は(中略)濫用してはならない(第12条)
  • 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り最大の尊重(第13条)
  • すべて国民は、法の下に平等であつて(中略)差別されない(第14条)

と、自由権にも限界はあるよ、という安全装置も設定されています。

 

日頃から、何の役にも立たないような文章やつぶやきを書いている身としても、一度整理しておこうと思ったので、こんな内容が出来上がったんですけどね。
かたい話ですがどうぞご清聴ください(ご清聴?)。

 

私の基本スタンスとして、やはり言論は自由であるべき、自由でいいと思うのです。
何かについて考察をしたり、誰かの主張に対して異なる意見を言ったりですね。
それは、十人十色で、意見や考え方が違うわけですから。
『一人一人違う種を持つ』でいいと。
そうじゃないと、綺麗事や、イエスマンなことしか言えなくなってしまう。
そうなってしまったら、『何も書けねぇ』になってしまうなという、危機感はあります。

 

ただ、何事においてもそうかと言うと、そうではないんですよね、そこはバランスで。
権利を振りかざさないとか、人や社会に迷惑をかけないとか、皆平等だから人間性をとって個人攻撃しないとか。
憲法に書いてあるような、基本的なこと。
そこは考えながら、書かないといけないんだろうとは思います。
その制約とうまく折り合いをつけていかなければ、いよいよ「皆守れないんなら規制するべえ」という話になってしまい、これまた『何も書けねぇ』になってしまいます。

 

さらに、もう一点。
ラインを越えてしまったかな、という言論や表現に対して、更にカウンター的に意見を発すること。
これは、より気をつけたほうがいいなと思います。
それが繰り出されるのは、たぶん頭に血が上ってとか、感情的になった状態の時だと思うんですけど。
事実は、後で時間が経ってみたときに、聡い誰かに冷静に分析されます。
そして、「元の人もアレだけど、それに反論した人もアレじゃね?」
と言われてしまいかねません。

ミイラ取りがミイラにならないようにしないとですね。
そして、そういったものを見たときは、自分も似たようなことをやっていないかとか、あれが同じような感じだったなあと、自らを振り返る機会にもなると思うんです。
書いている私も清廉潔白ではありませんし、みんなそんなに聖人君子ばかりじゃないと思うので。

 

ということで、つらつら書いてみました。
私自身、最初の最初は「自由に書きづらくなる・・・つらい・・・ぽいぞん」とか思っていて、多分表現の自由を大いに尊重するスタンスでいたのですが、今回これを書くにあたって自由権について調べたりして、色々考える中で、とても勉強になりました。

どっちに転んでも、『何も書けねぇ』にしないために。
いろいろ気にはしながら、でも本心を大事に、書き進めていきたいなと改めて思いました。