つるまうかく

群馬在住ヲタクのネット書斎

役に仕える

仕事って『事に仕える』って書きますよね。
やるべきことがあって、そのために働くというのは、ある意味仕えているようなもの。
うまく行かないことがあった時に「事に仕えるって言うからさあ…」と愚痴を言い合ったりしたこともあります。

そう考えると、役者とか声優さん、いわゆる”演者”と呼ばれる人って、「役に仕える」なんだなあと。
”仕役”という言葉はないけれど、役がないと仕事にならない。
大塚明夫さんが著書『声優魂』の中で、「声優は自分から仕事を作れない」と書いていましたけれども、それもそういう意味合いなのでしょう。

 

ステージに立ったり、前に出るような方々。
芯が強かったり、強靱な印象がありますけれども、自分を抑えないと仕事にならないというのも、なかなか不思議なものです。
「いや、この仕事は本人の素(す)100%でやってるんだよ」と、ファンとしては言いたくなったりもする。
飾らないそのスタイルが逆にいいんだよと思ったりもする。
ただ、普段はこんな考えしなくてもいいんですが、何か”作品”の形になっているものは、やっぱり素ではないんです。

 

例えば、個人のラジオを例にしてみましょう。
何もキャラや作品を背負っていなければ、わりと素に近くなれる媒体だと思います。
でも、それが目的なら、別に”お仕事”にしなくても、プライベートでやってもいいわけで。

ただ、そういう番組には、必ず”ディレクター”さんがいます。
ディレクターは、”番組の方向性を先導する人”。
つまり、顔は出さないけど、運転手なんですね。
番組の主導権って、実はそこにあるんです。
看板になっている本人がコントロールしているわけではなかったりする。
ゆえに、そこに出ている演者は、”個人の番組をやる人”の役を演じているわけです。

音楽とかもそうで、プロデューサーとかディレクターが居たりする。
”自分が届けたい音楽”は、決してひとりで届けることはできなかったりする。

 

一人の人を支えるために、何十人も、人によっては何百人ものスタッフがいて。
その周りには色々なスポンサーがいたり、今は直接つながってはいないけどかつて縁のあった作品があったりする。
そう考えると、演者的な人って、ものすごく思い見えないものを背負って、個人を演じているんですよね。
アニメや物語性のあるコンテンツでキャラクターに仕えているのと同じように、”個人という役に仕えている”と言ってもいい。
そのすごさは計り知れないですし、だからたまに心折れてしまう人もいたりするわけだなとも思ったりします。

 

たまたまこんなことを考える機会があったので、そこを突き詰めてみましたが、こんな事なんか普段考えなくていいと思います。
逆に考えてしまったらファンでいるのに辛さを感じてしまったり、色々面倒くさくなってしまう。

ただ、この考えを持っておくと、なにか一線を越えてしまうようなところに至ったときに、すっと引き返せるような気もするんです。
たぶん、私が言うまでもなく、皆が薄々気づいている壁。
みんな、ちゃんと演者とファンを演じている。
向こうもこっちもわかりきっているロールプレイ。
私たちは演者にはなれないけど、ファンという役に仕えることはきっとできる。

 

そんなことを頭の片隅に置きながら、今を最大限に楽しむ。
大事なことは、きっとそこなんですよね。