つるまうかく

群馬在住ヲタクのネット書斎

テセウスの船

テセウスの船』というお話があります。

テセウスは、古代ギリシアの英雄の一人。
クレタ島ミノタウロスを退治し、アテネに帰ってきたときに乗っていた船には30本の櫂(オール)が備えられていました。
しかし、使われていた木材はどんどん朽ちていき、徐々に新たな木材に取り替えられていきました。
この船は長く保存されており、『テセウスの船』と言われていたのですが・・・

 

最初にあった船の木材がすべて取り替えられたとき、この船は『テセウスの船』と言えるでしょうか。
また、取り替えられた”朽ちた木材”を組み直して新たに船を造ったとき、この”朽ちきった船”は『テセウスの船』と言えるでしょうか。

 

この一連のできごとと、2つの仮定。
これを『テセウスの船』と呼び、長らく議論の対象になっているそうです。

 

これ、本当に頭がこんがらがる話ですよね。
前者は「そうは言えないでしょー」って気がするんですけど、新陳代謝のことを考えると、人間も前者の例のような気がする。
後者は、確かにそうなんですけど「クローン生物は元の生物か」と言われると違うんじゃないかとも思う。

 

「こんなの認識の違いだから結論は出ないじゃないか」と感じる人も多いと思います。
でも、ある意味その思考停止にも思えるその感情が、わりと大事で。
そう認識する人がどれだけ多いかでどちらもテセウスの船になりうるというのが、わりと妥当なんじゃないかと思います。
理論や証明なんかで結論が出たとしても、それが広く認められることが大事な気がするんですよね。
「納得できるかどうか」という観点です。

その判断がフェアかどうかはなんとも言えないのですが、なんか今の時代はそんな気がする、という感じがするんですよね。
どっちにもなりうる”シュレーディンガーの猫”状態でありながら、その中身が明らかになっている分、ああだこうだと議論しながら、ある種の落とし所が見つかる。
なんだか、それって今っぽいなと思ったりもします。

 

認識問題なので、思考実験な感は拭えません。
そして、これを考え込んでも何かのプラスにはなかなかならないので「へー、そんな話があるんだ」という感じでいいとは思います。
ただ、私たちの身近なものでも、こんな構図がじつはあったりして。
そのとき「あ、テセウスの船だ!」と、少し考えるフックになる、そんなことがあるかもしれませんね。