つるまうかく

群馬在住ヲタクのネット書斎

”推しのために、生きていく”はできるか

『好きなことで、生きていく』

YouTubeの、有名すぎるキャッチコピーです。
ユーチューバーという生き方を表現する上で、とても魅力的なフレーズであると同時に、「実際にそう生きて行くのは難しい」という声もたくさん聞かれました。

 

今日は、最近よく見かけるフレーズ、「推しのために生きる」ということについて、考えたいと思っていて。
まず、これを”ものすごくドライに”紐解いてみたい、と思ったんですよね。
どんな状態だったら、推しのために生きるになるのか。

全財産を推しの関係するものにつぎ込み、貯金もお金もなく、借金をしながらすべてをそこに注ぎ込んでいる。
推しに何かあれば、身をもって挺するくらいの覚悟でいる。自分なんてどうでもいい。

かなり極端な例ですが、多分このくらいが”推しのために生きる”って感じなのかなと思っていて。
自分よりも推しのことを優先して、自分はどうでもいい。
そのくらいの極地なのかなと思っています。

でも、普通に考えれば、これはないわけです。
誰もが、自分の命が、身が、立場が、生活が大事なわけで。
推しが成果を残せなかったら代わりに死ぬ、みたいな人はいないでしょう。
だから、その時点で、「推しのためだけに生きる」人って、めったに存在しないんです。
いたとして、それはもう、理解を越えてしまっている存在ですね。

 

視点を少しマイルドに戻してみます。
”自分のことも踏まえながら、推しのことも考えがら生きる”、”自分の人生の中で推しが大事な存在です”という人は、たくさんいると思います。
私もここに入っていると思いますし、ここにいたい。

ただ、大多数がこの領域にありながら、この範囲にいることをかなりシビアに考えている人もいて。
「この人の推しでいるにはこのくらいストイックでないといけない」とか、「ファンはこうあるべき」とか。
前で書いた、本当に自らを犠牲にしているような人に比べたら度合いに差なんてないのに、そんな感じになっていたりして。
そこに合わせていくのはけっこう大変さが伴ったりして。
だから、そういうのをみると、毎回思ったりします。
”精神やメンタルまで抉らなくていいんでない?”と。

 

人生は車輪だ、と言われたりします。
車輪は二つあって初めて安定する。
一つだけでは安定しない。
その一つがパンクしてしまったら、絶望しかないから。

 

軽く見ろってことじゃありません。
もちろん大事に考えていいんです。
でも、誰かを思いやることも、誰かを大事にすることも、あなたという柱がいなければ、できないことなんです。
コメントでカタカタとメッセージを送るのも、イベントに参加して振りとかペンライトとかで思いを届けるのも、周りの仲間に「これいいよ!」とおすすめして一人でもファンを増やすのも。
あなたがいなければ、できないんです。

 

まず、自分をしっかり大事にして、そのうえで、推しを大事にしていきましょう。
推しのために生きることは、あなた自身のために生きることです。