つるまうかく

群馬在住ヲタクのネット書斎

ファンが”認識してもらうこと”について

最近、このあたりの議論が活発ですね。
『いちファンが、応援している相手に"応援していること"を認識してもらうこと』。
「認知」という用語もありますが、法律上でもっと重い意味も持っている単語でもあるので、『認識』とかに置き換えて書いていこうと思います。

 

 

私は、『ファンはみんな等しくファン』だと思っていますし、『ファンと応援される側("芸能人"と形容していいのかわかりませんが、ステージに立つ人)は棲む世界が違う』と思っています。
なので、向こう側から認識される必要は正直ないと思っています。

・・・そう考えると、グッズは買う、イベントは行く、でもそこに自分の名前を出す必要ってないんですよね。
ごく普通の一般人は、ハンドルネームを持たなくていいはずなんです。
でも、人間ってそんなに格好良くもないし、割り切れるわけではありません。
われわれは聖人君子じゃない。
自己顕示欲ってどうしてもあるんです。

人間って自己顕示する生き物なんですよ。
生きたいよ、生きたいよと叫んで、泣きわめいて、ここまで生きてきた。
だから、行動としては、認識してもらおうという方向性の行動に出ることはあります。
それはこぼれ出るものだから、仕方ないと思っている。
でも、それをもってしても、基本はそこまで認識してもらわなくていいと思っています。
それがやはり、私の基本的な考え方なんですよね。

 

そのモヤモヤしながらも『認識はいらない』というやや不安定な前提のうえで。
場合によっては、認識してもらうという行動にあえて出ることもあります。
それは、「相手にとってそっちのほうが楽」という場合です。

例えば、『相手と実際に合うときに名札を提げていく』とかがそうで。
これは一見『相手に知ってほしいんだな』と思われがちなことなんですけど、相手がこの人が誰かを考える手間や労力を省くためにとても有用なことだったりします。
顔と名前を一致させるのって、めちゃくちゃ大変で。
でも、それを暗記みたいな感じでやってる人も実際にいたりするんですよね。
それが少しでも楽になるのであれば、そういった形の手段を取ったりします。

いくつかそういう手段を取ることがありますが、基本はこちらの都合ではなく、相手側のメリットに即してやっている、という感じです。

 

ということで、基本的なスタンスとしては『認識されなくていい』というのが私の答えでした。
ただ、『認識してほしい』という願い・・・というか"祈り"かな、そういう感情もよくわかりますし、私の中でもそれが徹底できているわけではなく、必要に応じては認識をうまい具合に使ったりもします。
ただ、基本として立ち返るスタンスは、やはり『されなくていい』で。

 

”認識されることに対しての損得”みたいなものはないと個人的には思っています。
確かに、ファンの間で話題になったり、公式に「推され」みたいな感じになっているファンもいて、すげーと言ったりすることもある。
でも、それってある種のネタというか、コンテンツの話題みたいな感じで。
例えば、その人が応援される側と懇意になったりするわけではないんですよね。

そういうことを求めているなら、もっと別の戦い方があるはずで、あれこれ考えてもしょうがないんじゃないか、と思います。

 

 

最後に、この文章を書くに当たってきっかけになったファン同士の会話があるんですけども、そこで言われていたことで『大事だなあ』と感じたことがあったので。

それは、『相手に見られているという前提で行動した方がいい』ということです。
え、そこで前提を180度かえちゃうの??って感じですけど、そうじゃないのでご承知おきくださいね。

”応援している人から見られる意識”って大事だなと思ったわけです。
見られていると思えば、変なことは言えないしできないんです。
襟を正してファンやってる感じ。
もちろん、常にそうはできないのが人の常ですが、その意識があれば時たま気にかけるし、言ってはいけない言葉などを公の場で書くリスクもかなり減るのではないか、と。
実際は、すべてエゴサされているケースは稀だと思いますが(でもいると思います)、そのつもりでいたほうがいいよなあと改めて思ったので、最後に書いてみました。

 

長々と書きましたが、個人の考えなので『これが正解』ではないと思います。
深く考え過ぎると、辛くなってくる部分もあったりします。
応援する側・ファン側のトータルで、長い目で見て、『プラスに、”WIN”に』なればいいよね、というお話でした。