今週の文化放送「夏川椎菜のCultureZ」で、”郷ひろみさんがすごい!”という話題が取り上げられていました。
郷ひろみさんが文藝春秋で語ったインタビューを読んで、夏川さんが感銘を受けたというお話で。
『郷ひろみ 文春』という不穏なワード検索でヒットするその記事には、スキャンダル的な内容は一切ない上に、こんな内容が書かれていました。
流石スター。
そう感じるエピソードのオンパレード。
そして、それを裏打ちする確かな信念。
カロリー高めのハイパワーな内容が綴られていました。
ただ。
『郷ひろみさん、理解の及ばないことを言っているかというとそうではないな。
言っていることは極めて普通のことじゃないか』
とも思ったんです。
役者さんは役を演じますし、パブリックイメージを作り出すお仕事です。
アーティストも、自分の作品に合うようなキャラクターを作り上げて、自分の印象含めて作品にしたりもします。
声優さんも、政治家も、企業の社長も。
多かれ少なかれ、表舞台に立つ人は、そういうところがありますよね。
そして、我が身を振り返ってみて。
『完全に素で生きていますか?』という問いには、きっと「いいえ」と答えると思います。
仕事の時は仕事の顔。
趣味の分野でも、きっと趣味人の顔。
それは、自分を100%さらけ出しているわけではないんですよね。
本来は自分を開放していいはずの、趣味の領域でさえも。
私の場合だと、ネットでアバターなりアカウントを作って、「鶴舞雪」という存在を演じている。
そのキャラクターに求められる役割を担っている。
そういう側面って、あると思うんです。
それはもしかすると、
- 自分を続けているだけ
- 自分としてやるべきかどうか
という、郷ひろみさんが考えていることと同じことなんじゃないかと。
職業がなんであろうが、私は私です。
誰のファンであろうが、どんな傾向の文章を書こうが、私は私です。
みんな、分野ごとの度合いは違うかもしれない。
見え方が違うかもしれない。
でも、きっと同じようなことを考えて、同じように生きているんだと思います。
すげえと思うだけじゃなく。
神格化するだけじゃなく。
自分とどこが違うかな、このあたりは似ているかもしれないな、そんな事を考えながら。
自分の存在意義を、可能性を、生きることの価値を、よりプラスにしていければいいなと思いました。