つるまうかく

群馬在住ヲタクのネット書斎

うんうん考えていた推し事のことの文字起こし

ここのところ、推し事の考え方だったりとか、方法だったり、うんうん考える時期になっていて。
全然まとまってないし、結論めいたものもないのですが、とりあえずブログに書いておこうと思います。
まあ、おおかたいつも言ってることなんですけどね。

 

考えていたことは、

  • 推し事するのにも自分が第一
  • 応援している相手が”絶対に正しい”わけではない

という、この2点。
前から私の推し事スタイルを知っている人は、「その考え方に固執してるよね」と感じるくらいに、変わってないことなのかもしれませんが。

 

自分が応援している相手、「誰々のファンなんですー」というその対象の人。
その人が、ガンガン成果を出していく。
活動の幅を広げていく。
そうすると、応援するといいながら、ファンはそのムーブメントに引っ張られていって、それがまさに”ブームを作る”ってことなんですけど。

それが、情熱そのままに、何も考えずに頭を空っぽにして付いていけるうちはいいんです。
でも、熱って絶対にいつかは冷めるものなので、ある種の冷静さだとか、打算だとか、惰性だとか、そういったもので”腐れ縁”のような形でついていく形になることって、あると思うんです。

誰かのファンになる人は、まっすぐというか、いい人が多い気がします。
それ故に、無理をしてついていってしまうことがある気がする。
本心はもうそこにはないのに、慣性の法則で継続してるんじゃないか、と思うことがある。

でも、誰かの応援をするのに大事なことって、自分をある程度しっかり持っていることだとも思うんですよね。
私たちは、応援している人を何かから守れるわけでもなければ、身を挺して何かをする立場でもない。
最も大事なことは、もちろん自分の命で。
その次は家族だったり、身の回りにいる人だったりして。
そういったバイタル的な意味で考えてしまえば、そこまで近い関係ではないはずなんです。

応援される側が、ファンに望むこととしてよく聞くのが
「健康にいてもらって、長く応援してほしい」
というもの。
なにか大きなことが、一人ではできない間柄だから。
だからこそ、自分を大事にすることが必要なんじゃないか、そう思ったりします。

 

 

また、2つ目の話。
いわゆる「全肯定型の推し事」ってやつですね。
私はこれを、前から”なんか違う”と思い続けています。

わからなくはないことなんです。
そして、それを本人に伝えて直そうっていう話ではないのももちろんのこと。

ただ、応援している人が何かの作品をやったり演じたりして、それが自分がものすごく合わなかったって時に、
「面白かったです!」
って言うのは、自分にも、相手にもウソをついていることになるんですよね。
それって、相手のためにやっていることのように見えて、じつは裏切りだったりするわけです。

何でもかんでも、全肯定すればいいというわけじゃないんですよ、たぶん。
変な”案件”とか、カルト的なものとか、社会的にまずいんじゃない?と思える行為とか、はたまた不法行為とか。
万が一応援している人がそういったところに足を踏み入れたとき、それを肯定するかっていうと、多分しない人が大半だと思うんです。
ただ、「炎上系」と言われる人々の中には、そんなことでもとにかく賛同しよう、守ろうと考えるファンってのもいたりして。
そんなファンになりたいですか?と聞かれたら、私は「絶対なりたくない」と答えます。
だから、全肯定すればいいってわけじゃないんです。

そういうことじゃない、何か活動していることは本人や周りの大人達が考えているんだから口を出すな、そんなスタンスはあるかもしれません。
ただ、それも、全員がうなづきマンになればいいってわけでも、ないと思っていて。

もしそれでいいのであれば、そこに個人が介在する必要ないんです。
そこには数値があればいいだけで、個人の名前や、存在や、立場や、ハンドルネームや・・・それはいらなくなってしまう。

ただ、とある番組のイベントで、ステージの上からこんな言葉がかけられました。
「あー、聞いている人、実際にいるんだ」と。

そうなんです。
応援される側の人は、数値がはしいワケではないんです。
うなづきマンがほしいわけでもない。
そこに、自分たちの活動に真摯に向き合って、時には意見を言ってくれて。
自分たちに「もっと高いところに行ってほしい」と願ってくれるファンが、ほしいはずなんです。

 

どれも、程度問題だと思います。
あとは動き方で気をつければいいとか、そういう話なのかもしれませんが。
こんなことを、ぐるぐるぐるぐる考えたりしていました。

 

 

この2つの話に共通することとして。
きっとみんな、もっと自分を大事にしていいんです。
推し事って、応援しているその人中心で動くことになるけど。
自分を中心に考えて、やっていったほうがいいんじゃないかなと。

だって、完璧に何もかも網羅して応援することなんてできないんですから。
自分ができることを、自分ができる範囲でやる。
それでいいんだと思います。

 

人はプログラムでもコンピュータでもない。
応援される側も、する側も人なので。
狙ったとおりには動かせないし、動けないけど。
そんな不器用さと不器用さがぶつかって、もがいて出来上がった花は。
いびつかもしれないけど、整っていないかもしれないけれど。
きっと綺麗な花になるでしょう。