つるまうかく

群馬在住ヲタクのネット書斎

「もっと頑張らなきゃ」ではない「こういう応援の仕方もある」の気付き

最近、自分が居がちな界隈(=コミュニティ)とはまた別の、「他の声優さんを応援している組」と言えばいいんでしょうか、そういった方々と話す機会がけっこうありました。
話を聞くたびに『どこもファンは大変だなあ』と思ったりもしたりして。
今まで『当然』と考えていたことが別のところでは違ったり、また『目からウロコ』な発見もあったりして、刺激をもらうとてもよい機会になっています。

ちょうど今日、「推し事は義務じゃない」と言う趣旨のツイートが回ってきて、それについて

・とてもよくわかる
・でも色々な仕組みの中で、義務に近いことまでやらないとままならない部分はある

ということを書いたんですけど、堅く・・・といえばいいのか、面と向かって・・・といえばいいのか表現に悩みますが、生真面目に誰かの応援をしようとしたとき、応援する側、ファン側にやや負担がかかり気味な感じの世界にはなってきているなあと思うんですよね。
また、これは別の記事で、「推し事の宗教化」みたいな話も回ってきて、これも言いたいことが分かる部分はあったりして。
みんな、悩みながら誰かの応援をしているんだな、と。

 

応援の仕方に、正解はないんですよね。
例えば、SNSでリプライを送ってはいけないなんてこともないし、これをしたら駄目だってことは、実はファン側には決められなくて。
応援されている側や運営側が判断を示すこともあるんですけど、それも全てにあるわけではなくて。
全体の空気感や雰囲気など様々な要素を勘案して、バランスを見て判断基準ができてくるもので。
しかもそれは法律みたいなものや、数式でバシッと決まるようなものではないので。
白か黒かははっきりしない、だだっ広いグレーがそこに広がっている感じがするんです。

そうなると、「このくらいはやらないとファンは名乗れない」とか「あのすごいファンの人がやっているような領域にいかないと応援していることにならないんじゃないか」とかいった、ある種の焦燥感や存在証明のような感情が生まれがちになり、もっと頑張らなきゃみたいなベクトルの考え方になってしまうんですけど、頑張りすぎは燃え尽きてしまう危険性を持っているわけで。

それよりも、いろいろな世界を見て、いろいろなアイディアをもらって、「こういう応援の仕方もあるな」とか、「これなら自分も無理なくできそうだな」とか、そういうことを考えていくのも、とても大事だなあと改めて考えました。

 

こんなことを打っている私も、前のめりで突っ込んでいるときは、自分で自分のことが見えないので、暴走機関車の状態に陥っていると思うんですけどね。
それで持つならいいんですけど、絶対にどこかで燃料切れは起こすので。
「少ししんどいな」と思う手前でひと呼吸置いて、視野を広げるほうに頭を触れるようにしたいなと思います。