つるまうかく

群馬在住ヲタクのネット書斎

であいもんと、簡単に片付かない関係

京都の和菓子屋を舞台にしたアニメ、「であいもん」。
非現実的な魔法が出てくるわけもなく、そういった意味の派手さはありませんが、物語が丁寧に描かれており、見ていて色々な気付きがある作品です。
私の地域では地上波放送がなくネット配信なので、少し送れての視聴になっていますが、毎週楽しみに見ています。

第4話で、ストンと落ちるセリフに出会ったので、ここで紹介してみたいと思います。

 

主人公の元恋人が、分かれてもなお主人公のことを気にかけている様子を、こんな風に言葉に表していました。

「本気でやろうとしている姿を見ちゃったら、それを見届けてやりたくなったの。
 『好き』とか『嫌い』とかで、はっきりわかれればいいけど・・・
 ”知れば知るほど、そんな簡単に片付かない関係”ってのもあるよね。
 血はつながってなくても。」
(「であいもん」より、松風佳乃子)

これは、かつての恋人という間柄として出てきた台詞でした。
個々だけ切り出すと、本来のやり取りの機微を若干損ねてしまうので、お時間ある方はであいもんの作品そのものを見ていただきたいところではありますが。

こんな感じで思うこと、あるなあと。

すべての物事を、好き嫌いで考えられたら、たぶん楽だと思うんです。
でも、そんなに単純じゃなくて。
人は相手を知れば知るほど、他人事じゃなくなるもの。
情が移ってくるものなんだと思うんです。

推し事なんかもそうで。
応援している人を「うちの身内が」的に言う人もいたり、かつて応援していた人が未だ気になる人もいたりする。
好き嫌いで考えたりすると、ちょっとおかしいやろと思われがちなんですが、やっぱりある程度知ってしまった人って、ここでいう”簡単に片付かない関係”になると思うんですよね。

 

他にも、”腐れ縁”だったり、嫌いと思いながら意識してしまう人だったり。
場合によっては、本心から遠ざけたいケースもあったりしますけど。
どんな分野でも、”簡単に片付かない”関係って、ある気がします。

そのあたりを表す言葉にはめったにであえないものですが、「であいもん」は、その不確かな関係性を言葉に起こしてくれました。
人と人とのつながりを大事にしている作品だからこそかな、と思っていたりします。

物事の定義は、辞書を引いてみたり、ネットで調べてみたりと、どうしてもレッテルを貼ってしまいがちですが。
こうして、ゼロかイチか、好きか嫌いかだけでは判断できないような微妙で繊細な要素は、少し心の余裕を持ちながら、丁寧に汲み取っていきたいものです。

”推しのために、生きていく”はできるか

『好きなことで、生きていく』

YouTubeの、有名すぎるキャッチコピーです。
ユーチューバーという生き方を表現する上で、とても魅力的なフレーズであると同時に、「実際にそう生きて行くのは難しい」という声もたくさん聞かれました。

 

今日は、最近よく見かけるフレーズ、「推しのために生きる」ということについて、考えたいと思っていて。
まず、これを”ものすごくドライに”紐解いてみたい、と思ったんですよね。
どんな状態だったら、推しのために生きるになるのか。

全財産を推しの関係するものにつぎ込み、貯金もお金もなく、借金をしながらすべてをそこに注ぎ込んでいる。
推しに何かあれば、身をもって挺するくらいの覚悟でいる。自分なんてどうでもいい。

かなり極端な例ですが、多分このくらいが”推しのために生きる”って感じなのかなと思っていて。
自分よりも推しのことを優先して、自分はどうでもいい。
そのくらいの極地なのかなと思っています。

でも、普通に考えれば、これはないわけです。
誰もが、自分の命が、身が、立場が、生活が大事なわけで。
推しが成果を残せなかったら代わりに死ぬ、みたいな人はいないでしょう。
だから、その時点で、「推しのためだけに生きる」人って、めったに存在しないんです。
いたとして、それはもう、理解を越えてしまっている存在ですね。

 

視点を少しマイルドに戻してみます。
”自分のことも踏まえながら、推しのことも考えがら生きる”、”自分の人生の中で推しが大事な存在です”という人は、たくさんいると思います。
私もここに入っていると思いますし、ここにいたい。

ただ、大多数がこの領域にありながら、この範囲にいることをかなりシビアに考えている人もいて。
「この人の推しでいるにはこのくらいストイックでないといけない」とか、「ファンはこうあるべき」とか。
前で書いた、本当に自らを犠牲にしているような人に比べたら度合いに差なんてないのに、そんな感じになっていたりして。
そこに合わせていくのはけっこう大変さが伴ったりして。
だから、そういうのをみると、毎回思ったりします。
”精神やメンタルまで抉らなくていいんでない?”と。

 

人生は車輪だ、と言われたりします。
車輪は二つあって初めて安定する。
一つだけでは安定しない。
その一つがパンクしてしまったら、絶望しかないから。

 

軽く見ろってことじゃありません。
もちろん大事に考えていいんです。
でも、誰かを思いやることも、誰かを大事にすることも、あなたという柱がいなければ、できないことなんです。
コメントでカタカタとメッセージを送るのも、イベントに参加して振りとかペンライトとかで思いを届けるのも、周りの仲間に「これいいよ!」とおすすめして一人でもファンを増やすのも。
あなたがいなければ、できないんです。

 

まず、自分をしっかり大事にして、そのうえで、推しを大事にしていきましょう。
推しのために生きることは、あなた自身のために生きることです。

推しキャストと推しキャラ

みなさんは、推しのキャストさんと推しキャラ、一致しているでしょうか。
私の場合は、もちろん一致することもあるのですが、一致していないこともけっこう多いです。
なので、応援しているキャストさんがいるコンテンツでも、推しキャラがいたらそのグッズを付けていたりしていて。
いつ「推しのグッズつけんかい!」とツッコミを食らうんだろうかと、内心ビクビクしております。

 

キャラを好きになってから中の人を知ったり、中の人きっかけで必然的にキャラが好きになったりすることもあるので、一致する人も多いかもしれません。
一方、少し不思議ですが
「中の人きっかけで見始めたけど、全然別のキャラが気に入った」
というケースもあります。

 

なので、厳密には推しとは違うのですけれど。
演じるキャラクターが好きなこともあって応援したり、気にかけたりしているキャストさんがいたりします。
その区別は実はよくわかってません。
はっきり区別する必要はないんだろうなとも思います。
そんな、なんとも”ふはふは”とした領域の中で、ただその他のキャストさんとは確実に異なった扱いで考えている、そんなところがあります。

 

ドライな見方をすると、『パーソナルな部分には踏み込んでいない』と言えるとは思うのですが、案外そのくらいのほうが、長く関われるのかもしれないですね。

あの頃思っていた大人と趣味と

あの頃、漠然と思っていた。

趣味にかまけていられるのは、せいぜい学生時代だろう。
働き始めたら、きっと自分の時間は全然なくなる。
だから、学生時代に楽しむことは楽しみ尽くしておこう。

 

あれから、10数年。
びっくりするほど、趣味続けてましたね。
ネットにも入り浸り続けているし、趣味としてはむしろアニメの観る時間は増えた。
美大の芸術祭に行ったり、その縁で即売会にも行くようになったりした。
ライブや、声優さんのイベントにガンガン行くようになった。
ますます、趣味が加速しているようなきがする。

 

あの頃は、崖みたいなものだと思っていたんです。
趣味が0になると思っていた。
でも、そうではなくて。

もしかすると、いくらかマイナーチェンジはしながらも、このまま働き終えるのかもしれないな、と。
多分老後までかわらんなと。

趣味人は趣味人として、まっとうしたい気がする。

 

かつては60定年で、趣味はそこから悠々自適にやればいい。
そんな頃もあったでしょう。
ただ、今はそうではない。
色々な道筋がある。

 

まだ、自分のライフを使ってこれがやりたいという柱は見えてきていないのが正直なところですが。
そのあたりをそろそろ模索したいな、というかしなきゃだな、と思い始めてもいます。
それは趣味にかぶらなくてもいいし、「私は推しのために生きます」というタイプでは私はないので。

いろいろなものに忙殺されていると、そんな事も考えられなくなってしまったりするので。
自分が何をやりたいか、そろそろ考えていきたいなと思ってます。

自分の好きなものをより多くの人に知ってもらうために。

”自分の好きなものをより多くの人に知ってもらうこと”。
「宣伝」「周知」「PR」「広告」など、色々な呼び方をされます。
最近だと"拡散"なんてワードも使われたりしますが、そのあたりをひっくるめて適切にに表現する言葉だと、やや固くなりますが広報、イコールで『PR』というのがオーソドックスなので、今回はPRで統一して書いてみます。

PRって、正解がないんです。
全てのケースに当てはまる”王道”みたいなものがない。
例えば、最近で顕著なケースに「炎上系YouTuber」があります。
人から嫌われることをしたら、普通は人気も出ないし情報も拡散されず、PRにもならないはずなんですよ。
でも、実際はマイナスの情報でも拡散され、少なくとも注目は高まっている。
わざと火種を作ることも、PRの一つの方法になり得るのです。
だからそこに王道がない。

 

最近、PRのキーワードに「人」が挙げられるようになりました。
なんのこっちゃ、と思うようなキーワード。
ただ、翌々考えてみると、今の私達って、人でないものからレコメンド、おすすめをされることが格段に増えてきているんです。
スマホのアプリなんかで、自分にあったニュースばかりが流れてきたりすること、ありませんか。
Amaz○nのおすすめに、自分が気になるような商品が流れてきたり。
インターネットで大量の情報がやり取りされ蓄積される中で、無意識下で自分にあったものがPRされているんです。
そういう生活に、慣れてきた。

だからこその、「人」なんです。
スマホでおすすめされるより、誰かの”口コミ”で影響を受けたことはありませんか。
パソコンで打ったチラシより、手書きのPOPに心を動かされたことはありませんか。
精緻なのは機械で作られたほうかもしれないけど、味気なく感じたりもする。
人の手が加わったものには、なんだか温かみがある気がする。

最近は、PRに使われるSNSなどでも、「中の人」を目立つようにした形のものが増えてきました。

 

自分の好きなものをより多くの人に知ってもらうために、できること。
『好きなものを好きと言うこと』だと思います。

何かの数値で測ったら、広告にお金を出したほうがいいのかもしれない。
関連グッズを買うことで、売上を出したほうがいいのかもしれない。
でも。
私たちはきっと、普段の生活の中で、好きなものに向き合っているはずなんです。
ものすごくよかったとか、今回はちょっと残念だったとか、これはいいものだから多くの人に知ってほしいとか、これはこうしたらもっと良くなるよねとか。
色々な感情を持っているはずなんです。
それは、システムとか、ワンパターンな宣伝とかではどうすることも出来ないもののはずなんです。

むずかしいなって思います。
思った通りにPRできないなって思うことのほうがめちゃくちゃ多いです。
でも、それはきっと、ゼロじゃない。
無駄じゃない。

雲をつかむような祈りのその先には、きっと悪くない未来が見えているはずです。
”好きなものをより多くの人に知ってもらいたい”
その思いを、どうか大切に。
きっと、それを知ってもらえるタイミングが、きっとあるはずです。