つるまうかく

群馬在住ヲタクのネット書斎

土俵選びと、強いところと弱いところを認識しておくこと

『おたよりが採用されない』みたいな悩みが流れてきまして。
その解決法というか、考え方はたくさんあると思うんですけども。
その土俵がどんな土俵なのかを知っておくことと、強みと弱みを知っておくことが大事なのかなあと思いました。

 

自分のことで考えてみると、採用されてるイメージがあるかもしれませんけど、これは正直”番組による”です。
採用されなかった番組はたくさんありますし、逆に一度でもラッキーパンチで採用された番組は「採用されやすいのかな?」と思って(勘違いして)おたよりを何通か送ったりする、そんな感じで。
私はメール職人ではないので、そうやって土俵を選ぶ傾向があります。

 

また、強みと弱みの話をしますと。
私の場合、「はじめてメールします!」というおたよりが異常に強いです。
理由はわからないのですが、採用されないだろ、という番組でもなぜだか採用されることがあって。
いわゆる”ラッキーパンチ”ですね。
最近メールを送り続けていた番組も、その”ラッキーパンチ”が当たったからこそ、パーソナリティも番組も、より深く知れていったと思います。

ちなみに、最初のラッキーパンチが当たったことで勘違いしてメールを送り続けても、その後一通も読まれない番組とかもたくさんあります。

また、コーナーでは「ふつおた」で採用されることが多いです。
多いどころか、どの番組でもほぼそれでしか採用されていません。
なので、基本的にはふつおたに力を入れるようにしています。

 

その裏返しで、「ネタコーナー」や「大喜利」はほぼほぼ採用されないんです。
感情的にもかかわらずある程度理屈立てしないと文章が作れない性質なので、ナチュラルに面白いネタを作ることができないんですね。
どうしても人工っぽいネタになってしまう。
なので、有難いことにメールを沢山採用された番組でもネタコーナーはほぼほぼ採用されず。
自分のルーツの一つでもある児童文学の大喜利で採用があったとか、そんな感じです。

 

今回、ちょうどそんな話題があったので、おたよりの採用を例に書いてみたんですけど。
土俵もそうですし、強みや弱みを認識しておくことって何においても大事だなと思います。
最近って、弱みの分析はしがちなんですけど、強みの分析ってあまりしないんですよね。
ある種の空気読むことをする世の中になったこともあって、それをすると自分の自慢をしているようになったり、おこがましいと思われたりするんじゃないかと思ったりして。
でも、強み分析はわりと大事だと思うのです。
それが生きていく武器になるので。

 

強みも弱みも、真正面から向き合ってしまったらつらいです。
そもそも、自分対自分では客観視できないので、冷酷に、冷徹には分析できないはずなんです。
なので、照れながら、呆れながらくらいの、斜に構えた分析でいい。
それを知っておくことで、この後きっと、何かの役に立つはずです。

帰ってきた相棒

「相棒、帰ってきたな~!」

ドラマ「相棒」Season21の1話・2話を見ての感想はこうでした。

 

いや、相棒はずっと続いていたのですよ、20年以上も。
でも、最初のテイストがずっと続いていたかというとそうではなく。

相棒に限った話じゃありません。
人でもモノでも、変わり続けて寿命を長くしていくじゃないですか。
だから、変わることは当たり前のことで。

相棒には時期ごとにテイストがあって、それがまさに”杉下右京の相棒が誰か”というところで左右されるんですけど。
やっぱり私個人の思い入れとしては、杉下右京の相棒は亀山薫なんですよね。

そういう意味での”帰ってきた”。
もちろん、キャスト全員が年を取っています。
メンバーも入れ替わっている。
スタッフ陣だってきっと違うはず。
だから、きっとテイストは昔とは違うだろうなあと思っていました。

でも、そこにあったのは、初期の頃の相棒でした。
だから、こうつぶやいた。

ああ、これが「相棒」だ…

 

もちろん、これまでの歴史を重ねてきた相棒も好きです。
見ていない回はあるかもしれないけれど、基本的にほとんど見てきた。
でも、そんな長年の歴史をへて、ここに帰結した。
それがとても嬉しいんです。

 

色々言われているとおり、またキャストからもそんな話があるとおり、復活した初代相棒はきっと長くはないでしょう。
でも、そんなエクストラステージを令和のこの時代に見れているのは本当に幸せだなと思いますし、このリアルタイムを楽しみたいなと思います。

フラスタはいくらあれば出せる?(はじめて出す方向け)

今日、こんなツイートをしたところ、少し反響がありました。
重ねていくつか示唆や考察もあって、そのあたりも最もだなあと思ったので、少し丁寧に書いてみようと思い、筆(キーボード)を執っております。

 

1 決まった相場はないが、1万5千円くらいあれば"出せる"

あまり意識しないことですが、お花って”時価”なんです。
回らないお寿司と同じなんですよね。
だから、魚市場があるように、お花にも市場があったりします。

なので、値段についても、お花屋さんごとに変わってくることが結構あって。
1万でやってくれるところもあるかもしれませんし、顔見知りの店とかであればまた全然違うかもしれません。
「どのお花屋さんでも対応してもらえそうかな」という額が、だいたい1万5千円程度(税抜)だということなんですね。
ちなみに、以前の私の感覚では1万2千円くらいだったのですが、今は値段も少し上がっているので、1万5千円としてみました。

これは最低額の話なので、『普通のフラスタはもっとかかるよ』という話はその通りなのですが。
今回は「フラスタを出そうかな、どうしようかな」と迷っている人に向けての発信でしたので、その完成度とか、内容とかはさておき。
”フラスタを出す”ということは、最低いくらあれば可能なのか
という視点で呟かせてもらいました。

冷静に考えてみると、1万5千円のプレゼントって、かなり高額ですよね。
この部分は、しっかり捉えておいた方がいい感覚だと思います。

2 じゃあ、1万5千円のフラワースタンドってダメなの?

百聞は一見にしかず。
Googleの画像検索で、1万5千円のフラスタを見てみましょう。

www.google.com

ご覧いただいて、どんな印象を受けましたか?
「・・・意外と、いい花じゃない?」

そう、1万5千円の花でも、普通にフラスタとして成り立つんです。
よく、”関係者からの祝い花”ってイベントに贈られたりしますけど、シンプルなものでだいたい2万円前後だと言われています。
だから、安いフラスタがだめどころか、1万5千円でこれだけのいいお花が贈れるんです。
これも抑えておいていい話だと思います。

 


参考までに、この祝い花も3万円未満で収まっています

3 一般的には3万~6万5千円くらいが多い

それを踏まえて、”普通のフラスタはもっとかかる”という部分に触れていきたいと思います。
このページを見ていただいている方は、きっと声優さんや、アイドルさんに贈ろうとしている方が多いのではないでしょうか。
さきほどご紹介したようなシンプルなフラスタが贈られる一方で。
贈るお相手の担当カラーの色のお花にしたり、バルーンや装飾をふんだんに使ったり、イラストやパネルがあしらわれたポップでバラエティに富んだフラスタをよく見かけませんか?
そう、フラスタが一般的に3万以上かかると言われるのは、そこに「デザイン」という要素が入ってくるからなんです。

自然界にあまり存在しない青系や緑系(花としては少ない)のお花はレアですし、場合によっては色水で染めたりもします。
バルーンや装飾もお花屋さんのほうで材料費がかかります。
パネルも印刷費がかかりますし、下手すればイラスト代のほうが高いのでは・・・みたいなフラスタも存在します。

ただ、それはデサインやこだわりの話であって、もちろん必須ではないんですよね。
自然界に存在しないお花を使うことで、雰囲気のバランスが壊れてしまうこともあります。
バルーンなどは、持ち運びや人が通ったときに割れるリスクがあります。
イラストがない方が、本来のお花がよく見えるといった逆転現象もあります。
お金をかけたからと言って、それが全部プラスだけに働くわけではないのです。
バランスが大事なのです。

なので、この後はじめてフラスタに挑戦される方は、あまり「あれもやろう、これもやろう・・・」とは抱え込まず、まずはシンプルなものをベースにして、お花屋さんと相談してみるのがいいかと思います。

4 上を見ればキリがない

これは何の世界でもそうですけど、上を見ればキリがありません。
フラスタ一本に十万以上使うケースもありますし(企画のことが多い)、企画を呼びかけている人の人脈が抱負なことで一大イベントのような規模になっているフラスタなどもあります。
ただ、それはこだわりとある種での自分での満足の話であって。
そのくらいでないと贈れないなんてことは、全くありません。

過去最高規模ですが、もちろん10万よりは全然安価です

5 お花は金額ではなく気持ち

野球に逆の形の名言があったりするので、これを押し通すのも勇気がいるんですけどね。

でもね、お花ってこうだと思うのです。
安かろうが、急いで用意したものであろうが、心がこもっていればそれはいいお花。
逆に、自己顕示の塊みたいなお花になってしまうと、見ている人もモヤッとしてしまう。

花束って、真心を込めて渡すものですから。
せっかく、お金を出してお花をお贈りするのであれば。
お花を贈りたいと思った「最初の思い」をしっかり心に抱きながら。

相手のことを思って、一生懸命準備して、贈ってみませんか。

 

0→1と、その先へ。

『見つけてくれてありがとう』

そんな言葉を聞く機会が、最近は増えたような気がしています。

 

”声優”は、どこからどこまでの範囲を指すのか。
なかなか難しいというか、誰も明示できない定義だと思います。
「アニメに出ていれば声優でしょ?」という単純明快な考えもあり、確かに1年で約200本新たなアニメが生まれ、声優人口も1,500人くらいだとすると、まあ適当な感じではあるかもしれません。
ただ、現実はそこまで明るくはなく。
人気の声優さんは5本も6本もアニメを抱え、反面アニメになかなか出ることが叶わない声優さんもいます。

そして、声優さんが声を当てるコンテンツはドンドン幅を広げ、ゲームやアーティスト活動、ラジオ番組にまで進出してきています。
個人的な感覚では、アニメーションに限らず、何かのコンテンツで主要またはサブ的な立ち位置で声を当てていて、それを主な生業にしている人であれば声優じゃないかという認識が漠然としてあります。

 

そもそも、”声優になる”ということが、登竜門として狭き門です。
事務所に所属することですら難関中の難関。
そこから何かの役を掴むのもさらに難関。
知名度が出たり、ましてや人気が出たりするのは、夢のまた夢。

かなしいかな、声優さんを応援する身としては。
0から1までの部分って、ほとんど応援ができないんです。
声優事務所に所属するところまではもちろん見ることができない。
所属しても、何かの役をつかんだり、何かのメディアで表に出ない限りは、私たちは認識することができない。
その人の人となりを、才能を、可能性を。

 

だから、0から1への難関を乗り越えたその人達を、”見つけた”事自体が奇跡なんです。
そして、その1を2や3に、10や100にしていくのは、私達の応援でできることでもあるんですよね。
0から1はできなかった。
それに比べたら、できることなんて天文学的に多いんです。

 

「こんなに広い世界で キミを見つけたよ」と歌った曲があります。
70億人もいる、この広い世界。
そこで自分が好きな人を、応援したいと思える人を見つけられるのって、とんでもなく低い確率のことで、奇跡的なことなんですよね。

だから、その先へ進むための応援をしていきたい。
そう思います。

仕事と体調と願い

ここのところ、体調不良のニュースをよく目にします。
残念ですし、心配ですし、本当に回復を願いますとしか言えません。
もどかしさが残ります。

これは芸能の世界だけじゃなく、サラリーマンでも、技術職でもそうだと思うんですけど、仕事の負担は均一にはならないんですよね。
仕事を引き受けがちな人もいれば、仕事を他の人に被せる形になってしまう人もいる。
私も、両方を経験したことがあります。
さらに、環境が変われば構図もガラッと変わり、ある職場で仕事ができた人が別の職場ではできないというレッテルを貼られることもある。

私の場合、きっとオールマイティにデキる人ではないはずなんです。
ただ、私は職場ではピエロでいるので、物わかりのいい人だとか、仕事が回せる人のような扱いを受けることがあります。
でもそれって、ものすごい”背伸び”なんですよね。
背伸びをしているということは、本当の自分に比べてものすごく無理をしているということなんです。

なので、負荷が耐えきれなくなるなと思ったときは、できるだけ弱音を吐くか、「無理です」と言うことにしています。
我慢するのはその時は楽なんですよ。
でも、その後で何倍もしっぺ返しになって返ってくる。
だから、火種は早いうちに「ここに火種があります」と言っておいたほうがいいんです。

また、周りで目にする人が体調が悪そうだったり、仕事を抱えてそうだったら「大丈夫ですか」と一声かけるようにしています。
きついこと、つらいことを自分から言い出すのって、めちゃくちゃ大変なんですよ。
だから、声をかけることがまず必要で。
そして、その状態を一人で解決しようとはせず、更に他の人を巻き込むことも大事です。
誰かの不調をひとりで背負えるならいいんですけど、実際できないんですね。
だから”おおごと”にして、そこにいる何人かで解決しようとしてみる。

だいたい、私がやってるのはそんな感じのことです。
すべてがうまくはいきません。
いきませんが、何もやらないよりはいい。

 

常にだと思うんですが、色んな人に、特に表舞台に立つ人に思っているのは、どうか健康にいてほしい、無理せずマイペースで生きてほしいということです。
その言葉を私はわりとかけ続けてきました。
別に自分が大病したわけでも、家族を早くになくしたわけでもないのですが。
どうしてか、健康面はとても心配しているんですよね。

きっと、根底には
「生きていれば、健康であれば、元気があれば、何かはできる」
といった思いがあるんだと思います。

もちろん、すべての人や命に平等に思いを届けることができないけれども。

どうか、どうか。
私が観測できる範囲の人が、無理せず、健康で、元気でありますように。