高橋しんのマンガ「最終兵器彼女」、私はこの作品がバイブル級に好きなのですが、最終巻の作者の"あとがき"に、こんな文があります。
そしてたとえば五年経ったらこの本はその誰かにとってもう意味のないものになっているでしょう。
そんな時がきたらどうか、この本を誰かに譲ってください。
心動かされるストーリーはもちろんのこと、このあとがきも注目されました。
後に『作者は、きっと歳を重ねたらこの物語が読めなくなる時がいつか来るから、その時は誰かにあげてくださいと、そこまで考えて書いているんだ』と評価されるあとがきでした。
昔を思い返してみると、”これが好き”というものに対して、結構文句を言っていたような気がします。
文句を言うから嫌いなのか?と思ったら本当は好きで、好きだからこそ自分の思い通りになってほしいという『好きの裏返し』だった、なんてことがよくありました。
今や、個人が意見をバンバン表に出す時代。
反対意見を出すと反感につながりやすくもあるため、好きなものに文句を言うケースはあまり見かけなくなりました。
好きなものを褒めて褒めて褒め殺して、とにかくいいものですよ!と紹介するような時代になった。
ただ、みんながみんな常に聖人君子でいられるわけではないですよね。
内輪や飲み会なんかでは、本音が見えてきたりもする。
聖人君子でいたほうが得だと思ってそう振舞っているだけで、本質はそう変わっていないんだと思います。
そうあろうとするには、やせ我慢とか、無理したりという努力を続けることになります。
それが何にも影響が出ていなければいいのですが、そのままの感情をずっと抱えているわけにはいかず。
時に、こうした言葉を発する場合があります。
「つらい」
好きなものを延々と抱え続けたら、歳を重ねるごとに手放せないものがたくさんになってしまう。
最終的には色々なしがらみに縛られて、何にも楽しくない状態になってしまうかもしれないなあと思います。
なので、好きでい続けることに、負担になるくらいの努力が必要なら。
好きよりつらさが勝ってしまう状態が長く続くなら。
その状態から離脱してもいい、と思うのです。
なんでもフルコンプしたり、長く好きだという状態を続けることが評価されたりするので、その苦しさはあるかもしれません。
ただ、好きかどうかは自由意志なので、無理はしなくていい、と思います。
先日書いた『うえしゃまのラジオの話』(今好きなものを、今全力で大事にするということ~上田麗奈のひみつばこ 第45回より - つるまうかく)に通じる部分もあるんですけど、『マイブーム』みたいな概念が今でもあることを考えると、好きなものってやっぱり変わっていくものなんですよ。
ずっと好きなものもあるのは間違いないです。
ですが、それが15年後、20年後までに自然と好きでいられるかというと、その確証はない。
変わり続けて変わり続けて、別なものを好きになってもいいですし、5年くらい、また10年くらい間隔があいたけど、もう一回その作品とかに触れてみて『そういえば好きだったんだよな』と思い出したっていいんです。
”好き”という感情は、本心で向き合うのがしあわせなのではないかと、そう思ったりしています。
ちなみに、「最終兵器彼女」は、今でも私の本棚に並んでいます。
長らくちゃんと読んではいないので、今読んだら読めるのかはわかりません。
もしかすると、誰かにあげたほうがいいのかもしれません。
ただ、今のところ譲る予定はないそうです。