つるまうかく

群馬在住ヲタクのネット書斎

ファンってなんだろう

直接存じ上げない方なんですけど、ファンでいるのをやめた方を見かけました。
知っている、いないに関わらず。
自分に関わりが深い、そこまで深くないとか、その深度に関わらず。
誰かのファンをやめる姿って、とても悲しいなと思います。

お気持ち表明的な意味での悲しいではなく、哀しいという感じで。
誰しも好き好んでファンをやめるわけではないですから、そんなあてつけみたいなことは思いません。
私自身も、ファンをやめたことがたくさんある。
明朗快活にやめたことなんか、一度もありません。

 

そもそも、ファンってなんだろう。
いいファンってどんなファンだろう。
そんなことを、日々考えながら。

自分がやることが、何かの観点において、マイナスになってしまうのであれば。
『お金を払って商品や成果物を買いはする、ただし口は一切出さない。』
そういうスタンスのほうが、無害なのかな。
相手にとってベターなファンなのかな。
そんな答えにも辿り着いてしまったりもします。

 

ホント、答えがない世界。
ただし、既にファンだった人や、他の人や作品の”ファンのあり方”みたいなものはあって、ファンっぽくなることって、今はなりやすいんだと思うんです。
『ファンを名乗るならこれを全部読んでこれを全部見た上で何かをやってそれで初めてファンと言える』みたいなものも、今はないですし。

ただ、本当は、そんな先例とか、しきたりとか、こだわらなくていいんですよね。
オーソドックスなファンの成り方なんて、ないんですから。
気づいたらなってるんだ。

 

今は、型にはまったファンでいることが楽な時代だと思います。
逆に、そこから少しでもはみ出してしまうと、ちょっと怖さを感じたりもする。
ただ、本当は、そうじゃなくてよくて。
守るべき法律やルールはあるし、気をつけるべきマナーはあるかもしれないですけど、それを除けば、自由でいいんだと思うんですよね。
ファンでいることって。

 

今は、ファンを宣言した時点で、なにか責任を追うって感じになっている気がする。
それは、ネットが発達して、SNSでの発信もある程度の責任を求められるようになったからだと思いますが。
「誰々のファン」としてネットで何かしらやっている人と、そうではないけど、家族内とか、仲間内で、「私、この人のファンなんだよねー」と言うことって、本当はそんなに変わらないはずなんです。
好きを表に出すことによって、逆に縛りを受ける可能性が出てしまう時代になった。
好きなものが同じ人と出会いやすくなったのは幸せなことですけど、それによって考えることも出てくるようになったと思います。

 

『ファンはどんなスタンスがいいか』的なことをわりと考えているとは思います。
ただ、私自身が聖人君子でもなければ、あまり褒められた性格でもありません。
そして、その考え方に王道も、正解も、論理もありません。
ただ、数多ある考えの一つを書いているだけで。
正義の反対は別の正義で、正義は人の数あります。

言ってしまえば、自分の感情なんですよ。
ファンでいることって。
ファンとして何がしたいかって。
色々理屈や理由をつけて論理的にしようと私もしますけど、それはある種のかっこつけで。

だって、好きに理由っていらないんです。
好きなんだからしょうがないじゃない。

たぶん、そんなシンプルかつプリミティブなことを覆い隠しながら、私たちはファンになるんだと思います。

 

様々な矛盾を抱えながら、私は誰かのファンでいます。
きっと、そこに論理性はない。
でも、好きでいたい、応援したい、この子には頑張ってもらいたい。
その思いは、きっとそこにあって。
だから、誰かから白い目で見られようと、面倒くさがられようと、自分ができそうな形で、好きを続けるでしょうし、応援をしていくのだと思います。

 

説得力のある結論はありませんけれど、それでいいんじゃないでしょうか。
素直に。