つるまうかく

群馬在住ヲタクのネット書斎

対話と共犯

先日、「応援している人のことを全て知りたいかどうか」という話題があり、私も難しいなあと思いながらうんうん考えたりしていました。
私のとりあえずの答えは、身も蓋もない「(対象となる)人によるんじゃないですかね」というもの。

今日はそこから少し派生した話になるんですけどね。
このテーマは一緒に語ったことはあまりないけど、わりと焼き直しではあるので、「またか・・・」と思う方がいたらすいません。

 

応援される側の人って、何らかの形で発信していると思うんです。
最近はTwitterInstagramライブ配信だったりと双方向性のあるツールが主流ですが、ブログや配信番組、ラジオなど、リアルタイムの双方向性は薄いけど、コメントやお便りで擬似的にやり取りするものが合ったり。
さらに遡れば、『著書で』みたいな時代もあったかもしれません。

そんな感じで、形やスタイルは違えど発信はしていて。
その中で、その人のスタンスが見えてくるんだと思うんですよね。
「この人は自分のことをプライベートまで積極的に知ってもらいたい人だな」とか。
「仕事とプライベートをはっきり分けていて、必要以上のことは語らない人だな」とか。
様々な情報に触れることで、その辺がわかってきます。
私の場合は、そのさじ加減に呼応する形で、知りたいと思ったり、あまり詮索しないほうがいいなと思ったりするという感じですね。

それがまさに、”対話”だと思っていて。
「知られたくない」人のことをガツガツ掘っていくのも、ある種ナンセンスですよね。
逆に、「私を見て!」タイプの人にそっけない態度を取るのもまた然り。
そのあたりは、応援する側、される側のバランスがあると思っていて、それはまさに”対話”をしている感覚、だと思うのです。

 

少し前に”共犯者”という話題を書きました。
2回くらい書いて、実は2回とも納得のいく文章には出来なかったんですけど。
『アイドルは応援される役割を演じていて、ファンは応援するファンを演じている。
本当はアイドルがファンだけを見ていないことも分かっているし、アイドルもファンが自分だけを見ていないことがわかっているけど、応援される・応援するという擬似的な関係をお互い演じている共犯者である』
という分析を見て、そのとおりだなと思った、というそういう話でございました。
(シンプルに書けました)

今回のことも、それに近い気がするんですよね。
自分がファンという役割でいる中で、どこまでの共犯者になるか、みたいな感じ。
振り切ってしまう人がいないわけではないけれど、みんなある地点で折り合いをつけながら、ロールプレイの中にはいる。
そんな不思議で危うい世界で生きているところがある気がしていていて。
要はその度合なんじゃないか、と思ったりもします。

 

 

 

ファンのあり方は人それぞれです。
ただ、無理をしないことが大事で。
無理をしないということは、自分の本心に正直になるということで。
善きファンになろうとか、周りによく思われたいとか、どうしてもそういう感情って働くじゃないですか。
ただ、それで自分が苦しくなったり、はたまた目的がずれていってしまったりするのも、本末転倒で。
色々取り繕ったり、演じたりしても、見抜かれる時は見抜かれるし、わかる人はわかるんですよ。
だから、素直にやるのが一番楽で、一番楽しいんじゃないか。
そう思ったりもします。

 

共犯というと、あんまりよい印象はないかもですけど。
やっぱり、何事も関係性の上に成り立っているんじゃないかと、改めて思ったりしました。