推し事、誰かをファンとして応援することは、基本は「やらないよりやった方がいい」し、熱量があることも基本的にはいいことのはずです。
それが大前提、なのですが。
先日、推し事から遠く離れた場所でこんな話を聞きまして。
それは「とても長い手紙は逆にこわい」というお話で、それを聞いたわたしは冬なのに冷や汗ダラダラ。
熱量をもって長文のお手紙を書いている人はたくさんいるし、何より私自身が手紙を長く書くようになってきていて。
それは思い入れの強さみたいなところもあり、心情としてはプラスのベクトルでしかないのですが。
ただ、それが自分の領域ではない話だったこともあって、少し冷静に見ることもできて。
それが脅威とか、圧やプレッシャーに捉えられてしまうケースも、ないわけではないのかなと、考えてしまったんですよね。
この結論は、「人による」「どちらがいい悪いはない」だとは思うのです。
ただ、両方の視点は持っておいたほうがいいなと、最近は思うようにもなって。
そんな”圧”の部分は、自分自身に心あたりがある出来事もありました。
かつて、当時応援していた方に、いわゆる「誕生日の祭壇」の写真を送ったことがあって。
番組内では「ありがたいです」という反応をもらったのですが、その時の表情が心なしか引きつっていたんです。
おそらく、気味悪がられて引かれたたんですよね。
ここまで踏み込むのはアウトなんだなと、そのときは察しました。
自分自身で振り返るだけでも、そんなことが結構あったような気がします。
応援することが、独りよがりにはなっていないか。
その応援には、心がこもっているか、ルーチンになっていないか。
よく言う話ですけど、相手との距離感を測って、キャッチボールのようなやり取りをしていくことが、大事なのだと思います。
誰かに「がんばれ!」というときに、ファンとして「好きです!」と好意を伝えるときに、大事なのは、やはり心の内の本心であり、その時の感情なんだと思います。
人は他人のことを全然気にしていないけど、それでも人の心を推し量ろうとする。
どんなにすごい内容でも、どんなにすごい成果でも、心がこもっていなかったら、察してしまう。
熱量もそうで、バイオリズムと同じでそのときどきで増減すると思うんですよね。
何年も何十年も、一つのことに熱中している人って、きっといないはずなんです。
いつもフルパワーでそれに向き合っているというのは、なくて。
短期間だったら持つけど、どこかできっとガス欠してしまう。
熱量が多いなという人は、やっぱりガス欠してしまう瞬間をわりと見かけます。
また、そのタイプの人には、新たに登場したこれからの人を応援したいと思ってそちらに熱量を振り分けることも、ケースとしては少なくなかったりします。
私もその傾向が多少あります。
ずっと熱量高く、一点を・・・って、本当に難しいんですよね。
逆に、長続きしている人は、弱火でじっくりコトコトという感じで、応援している対象を、保護者視点や、孫を見るような感じで、一歩どころか二、三歩下がって、どっしり構えていることが多い気がします。
これも、一気に燃え上がらないことで長続きしている秘訣なんじゃないかと思ったりもします。
難しいし、正解がないことだってのも、繰り返し思っているところです。
ただ、自分のやり方が、周りだったり、応援しているその人に向かって、いい効果があればと放っているエネルギーが、実はマイナスのものだったってなるのは、やっぱり残念なので。
ましてや、私なんか行動に不快感を持たれるような性格しているので、尚更。
よく考えながら、空回りしないようにしていきたいなあと思う今日この頃です。