つるまうかく

群馬在住ヲタクのネット書斎

推し・好きニュアンス狂想曲

”自分の中で、世間的な定義としての「推し」と「好き」という定義は一致しないよ”という話は以前にも書いていて。
これまでにも何度も話題にしている「いつもの話」だと思っていたのですが、ゲンミツに振り返ってみると正面切って書いているのはやっぱりこの2つくらいで。
書ききる自信がないと形にしてなかったのかもしれません。

tsurumauy.hatenablog.com

tsurumauy.hatenablog.com

 

去年書いた2つ目の記事の焼き直しみたいな感じになるんですけどもね。

やっぱり、自分の中で「推し」と「好きな対象=自分がファンになっているその人」って、重なるケースもあるんですけど、一致しないこともあるんですよ。
後者を、便宜的に「推し」と呼んだりすることもあります。
ただ、それは楽だからであって、『細かく言うと違うんだよなあ・・・』と感じたりする。

「推し」のニュアンスって、”推挙すること”だと私は捉えています。
誰かに『どなたか良い人いませんか?』と聞かれたときに、「この人いいです!」と言えるような。
その推挙って、若ければ若いほど、実績が少なければ少ないほどやりやすくて。

逆に、経験が増えていったり、人気が出れば出るほど、やりづらくなる。
実力があったり人気がある人は、エネルギーをかけてプッシュしなくてもある程度の役はついてくる。
反面、「なんでもいいから仕事を取ってもらおう」みたいなものは、本人のビジネスプランに合うかどうかみたいなところも出てくるでしょうし、何が何でもという状態ではなくなる。
もちろん、つらいときの後ろ支えとか、ファンに求められる役割はあるんですけどね。
なんというのかな、その領域になってくると、「推す」という行為をあまり意識しないような関係性になってくるのかな、と思います。

 

 

私の場合、こう思われることがよくあります。
『「Aさんのファン」と言っておきながら、若手のBさんやCさんのことばかり話題にしているから、推し変したんじゃない?』とか。
確かに、熱量の配分が変わっている感じはするかもしれない。
でも、好きが変わったわけではないんですよね。
何でもかんでも、常に100%で、好きな人を応援すればいいわけではないわけで。

そもそも、ファンの関係性ってどうだったっけ?って考えると、
ファンって、”応援するだけの存在”なわけじゃないじゃないですか。
応援もするけど、そこで色々元気をもらって、いい関係性を築いていくもので。
そもそも、応援するとか考えなくても、「音楽に元気をもらいました」のように、ただただ何かをもらうだけだってファンのはずで。

応援はマストでは本当はないはずなんです。
推すこともマストではない。
でも、推すことそれ自体を救いと感じるファンもいて。
また、表舞台で戦う人にはやっぱり応援が必要で。
応援と、エネルギーを、お互いにいい感じで届けあっていい関係性を築きましょうって感じになってるんじゃないかと思うんです。

だから、あんまりその事を気にしなくてもいいんじゃねえかなあと。
結構いますよ、今応援してるのはこの人だけど、bio欄に行ってみると「その人好きだったの?」という感じで。
でも、根底にその人を大事にしている思いがある、って人。

その思いは邪険にするもんじゃないし、それでいい、と私は思います。

 

 

最終的に行き着くは、「推し」という言葉が便利すぎる、って話なんですけどね。
結局は定義の話になっちゃう。
2年前くらいに”マジックワード”と言っていて、あの頃の私はキレッキレだったなあと自賛してみたりしますが。

 

不思議なもので、若手や新人的な人を強力に応援している間でも、やっぱり一番大事にしたい人って別にいて、その関係性ってよっぽどのことがなかったりするとひっくり返らないんです。
わりと、そういうもんなんですよねという感じで、せっかくの狂想曲スタイルで書かせてもらったので特に大きな結論などはなく、ダラダラ書かせてもらいました。

 

形式にとらわれない、快活で諧謔(かいぎゃく)的な楽曲。狂想曲。奇想曲。カプリッチオ。

カプリッチョとは何? わかりやすく解説 Weblio辞書