つるまうかく

群馬在住ヲタクのネット書斎

オタクのポートフォリオ的なもの

オタクのポートフォリオ的なものがあるといいな、と思っていて。

ポートフォリオにはいくつか意味があって。
私は美大の芸術祭に行くのが趣味だったんですが、そういった創作の世界で戦っていく人が言うポートフォリオは『作品集』という意味で。
それが就活なんかに役に立つ、といった感じのものでした。
これが金融業界になると、『投資の内訳』みたいな意味になって、お金をどう運用していくかを考える指標みたいな使われ方をしています。

私が今回イメージしたのは、ベースは作品集に近い感じで。
月ごとくらいの単位で『今好きなもの』を書き出しておく。
そこにある種の指標の要素も混ぜ込んでおいて、後で分析できるようにしておく。
そんな感じの記録を、”オタクのポートフォリオ”として作っておくと、いいのかなと。

一つの趣味を、ずっと突き詰められるならたぶんそこまで必要ないと思うんですよ。
ただ、私のように「ちょろい」「すぐ沼に沈む」といったようなオタクにとっては、興味も沈んでいる沼も用意に移り変わっていってしまって、後から振り返ったときに
「この人、義理も人情もあったもんじゃなくね?」
となってしまいそうで。
これも言い訳がましくなりますが、その時は本心でまっすぐに興味があるんですよ。
ただ、性分として一箇所にとどまれないところがある。
故に、それは本気じゃないとか、軽率に思われてしまうんですが。
たぶん、熱量は小さくはない。

 

「オタク」というと、『何かを突き詰めていて、そこには詳しいけどあとはからっきし』みたいな認識が今でもあると思います。
ただ、何かを突き詰めるには、いろいろなことを知ることが必要なんですよね。
何かを好きというときに、他と比べて説明ができないと好きと言えない。
だから知識を多く取り込んで、真ん中を探って、それでやっと自分の軸が決まる。
それを決めるには、一つに詳しいだけでは情報が足りないわけです。

そうして情報を取り込む中で、興味があっちに行ったりこっちにいったりする。
それはわりと、あるあるなことだと思っています。

 

このブログにも、きっと、心のポートフォリオ的な意味もあるんじゃないかとは思いますが、分析できるような代物ではないですのでね。
自分の外に公開するものではないと思うのですが、そんなものを記録につけていいのかな、と思ったりしました。

あのころのあの店はもうない

当初書こうかなーと思っていたのとは全く別のことを書きますね。
こんな日もよくある。

 

 

東京に行ったとき、よく通っていた喫茶店がありました。
具体名は出しません。
コンセプトがよくて、それがまんま自分の癖に刺さって。
途中でブランクはありましたが、最初と最後で考えれば10年のスパンで足を踏み入れていたお店でした。

もちろん、個人経営の店舗ではないので人は入れ替わったのですが、世界観の統一が徹底されていて。
いつ行ってもほっと一息つける、「実家」のようなお店でした。

 

そんな店も、コロナのこととか、いろいろな影響を受け、閉店。

 

それから、いくらか時間が経って。
似たようなコンセプトで運営しているお店が、いくつかあることを知りました。
そして、なんだかいろいろ、見覚えがある。

もしかすると、あの世界が広がっているかもしれない。
一瞬、そう思ってしまった。

 

でも、やっぱり、どこか違う。
そこにはなかった相容れない部分が、あるように見えたり。
大事にされていたはずの要素が、されていなそうだったり。

 

なんでもそうですけど、誰かに自分の幻想を重ねてはいけない。
ないはずのものを、ないものねだりしてはいけない。

 

勝手に希望を持って、勝手に絶望を感じて、結局はプラスマイナスのはずなのに。
なんだか、「あの場所はもうないんだな」という実感が、今になって襲ってきました。

当時は、そこに行くことが普通の日常だったけど、
今考えれば、まさに桃源郷にいるかのような、恵まれた空間だったな。
改めて、その幸運を懐かしみたい、と思いました。

 

働くこととは

働くことについて考えた一日でした。
私自身もそうでしたし、フォロワーさんの悩んでいる姿も見かけたり。

 

働くことって、「どんな職業につきたいか」とか「何がやりたいか」といった感じの視点で見られることも多くて。
それは

  • 『役割』、社会でどんなポジションを担いたいか
  • 『目的』、どんなミッションを達成したいか

といった方向からの考え方なんですよね。

「おれはこの仕事に誇りを持ってやってきている」とか、「私はこれをやるためにこの職についた」とかですね。
それはとてもまっすぐで、耳心地の良い考え方ではあるんですけど。
最近、私はこんなテーマで色々考えました。

  • 「好きなことで生きていく」はできるのか
  • 一生かけて一人の人を応援し切ることは出来るのか

このあたりの感覚と近いものがあるなあと、今日ふと思ったんです。

好きなことを仕事にすることや、仕事への誇りは、仕事で辛いことを乗り切るための背骨にはなるかもしれないんですけど、それが人生の背骨になるかというと。
それが成立するとすれば、なかなかストイックな人なのかもしれません。

 

仕事におけるもう一つの考え方が、「ライフスタイル」です。
人は仕事だけに生きるわけではありません。
休みも必要だし、趣味も必要。

わたしも、かつては、これをやり遂げるためには万難を排して、他のことを全部かなぐり捨ててでもやろうくらいに考えていたことがありました。
ただ、それってある種のバーサーカーモードで。
ふつう、自分の命よりも大事な仕事ってないんです。

 

仕事でしかやりたいことが出来ない時代はありました。
でも、今は何かを実現するのは仕事に限りません。
趣味を突き詰めてもいいでしょう。
それこそ好きなことをやって、半ばYouTuberみたいになってる人もいるかもしれない。
仕事じゃなくても地域活動もあるし、NPOだったり、サークルもあったりする。
ネットでだって色んな人と繋がれる。
いろいろな形で、自己実現は出来るんです。

 

仕事に誇りを持つことや、それを生きることの真ん中に置くことは、決して間違いではないし、社会人の多くはそうならざるをえないと思います。
でも、それで自分をすり減らしてしまうのは、やっぱりもったいない。

綺麗事と言われるかもしれませんが、ワークとライフのバランスで、私はライフの方にやや重きを置いていいと思うのです。
仕事は、必要ならばやらなきゃいけない、”宿題”みたいなところもありますから。

ライフを大事にしながら、やらなきゃいけない仕事をうまくこなす。
働くってそれでいいんだと、最近はそう感じています。

はなれない距離は歌詞を読んでほしい

TrySailの新曲、「はなれない距離」。
アニメ『阿波連さんははかれない』のOPテーマとしてもわりと好評のようです。

激甘な歌詞とポップなメロディ、そしてキュートに振り切ったMVと、TrySailのファンからはご褒美みたいな曲とされていますが、
歌詞を見て、これは歌詞をよく読んでほしいなと思ったので、急遽書き出してみます。
粗い考察になると思うので、すいません。

きっと果てなく 遠い距離も
ぎゅっと 埋めちゃうくらいに

微かな声にめいいっぱい
想いは詰め込んで

何もいらず 0dBでも

このあたりの描写。
阿波連さんの作品からも持ってきている要素ではあるんですけれども。
ライドウくんと阿波連さんは、果てなく遠い距離にはいないんですよ。

じゃあ、この果てなく遠い距離にいるのは、誰なのか。
ファンと、応援される側の人達なんじゃないか、と。
それも、声が出せない、コロナ禍での。

そもそも、コロナじゃなくても、わたしたちはゼロ距離では接することができなかった。
コロナを経て、さらにそれが遠くなってしまった。

 

でも、この曲は、こう歌っています。

何もいらず 0dbでも
全部 わかっちゃうくらいに
君にもらった こんな想い ah
どう返せるかな…
そっと いつも ぎゅって
どんな離れても 近くにいれるよ

 

どんなに離れてても心はそばにいるよ。
昔から連綿と歌い継がれてきたそんなメッセージが、この曲にも宿っているのかもしれません。

 

かすかな声にめいいっぱい想いを詰め込んで。
もっと近づいて。
何色の空も、一緒に見れますように。

 

 

またね、

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「コンテンツ化」ってなんだろう

最近、「何でもかんでもコンテンツ化するのはいかがなものか」といった論調などを見かけまして。
それで思ったんですよね、
そもそも”コンテンツ化”ってなんだろう、と。
ネットに長くいると、ぼやぼやっとわかる感覚ではあるのですが、これまできちんと考えたりはしてこなかった。

 

個人的には、”コンテンツ≒作品”みたいな捉え方をしていて。
『本来は売り物でないもの・ことを売り物にすること』が”コンテンツ化”なのかな、と思っていました。

堅っ苦しいところから読み解いてみますと、日本にも『コンテンツの創造、保護及び活用の促進に関する法律』という法律がありまして。
その中では、”コンテンツ”をこう定義しています。

第二条 この法律において「コンテンツ」とは、映画、音楽、演劇、文芸、写真、漫画、アニメーション、コンピュータゲームその他の文字、図形、色彩、音声、動作若しくは映像若しくはこれらを組み合わせたもの又はこれらに係る情報を電子計算機を介して提供するためのプログラム(電子計算機に対する指令であって、一の結果を得ることができるように組み合わせたものをいう。)であって、人間の創造的活動により生み出されるもののうち、教養又は娯楽の範囲に属するものをいう。

(平成十六年法律第八十一号 「コンテンツの創造、保護及び活用の促進に関する法律」より)

・・・なんとなく、わかったような、わからなかったような。
この法律の中には「コンテンツの制作」や「コンテンツの創造」といった言い回しも出てくるので、それがさしずめ”コンテンツ化”という感じでしょうか。

weblio辞書ではもっとわかりやすくて、コンテンツ化を

ただの情報としての価値しかなかった情報にエンターテインメント性や教養の要素を付与し、コンテンツとしての価値を加味して提供する活動を指す。
コンテンツとは何? Weblio辞書

と定義しています。わかりやすい。
これだと、『売り物ではなかった情報に付加価値をつけて売り物にすること』という捉え方も、遠くはなさそうですね。

 

 

これを前提に考えると、”コンテンツ化”ということそのものが賛否あることだというのがなんとなくわかってきます。
ひとの一部分だけを切り取って売り物にしたり、公人や芸能人でない人を過剰に取り扱ったりすることには苦言が呈されたりもします。
「人の不幸を売り物にするとは何事だ」みたいなケースも結構あったりしますよね。

あとは、かつてのオタクと呼ばれた人々(私も入ります)が、”企業とかが仕掛けるビジネスの匂いがするネタ”みたいなものに嫌悪感があったりですね。
コンテンツ化というか、「それ、売り物にしちゃうの?」という感情が、コンテンツ化への反対につながっていたりする気がします。

その反面、コンテンツ化というのは、ネットの発達を待たずして、昔からあったことでもあります。
人なんかは顕著で、昭和の時代のアイドルとかもよく考えてみたらそうですよね。
「名物駅長」とか「名物社員」とか、最近では「名物猫駅長」もいたりする。
いまや、企業もコンテンツ化する時代で、広報戦略としてネタ的な発信を続けている会社もありますし、それしかやってない会社も多数ある。

 

そう考えてみると、コンテンツ化には、プラスの面と、マイナスの面があるんです。
んでもって、それは0と100という極端では考えられることじゃなくて、どのくらい割りきるかってことだと思うんですよね。

 

自分のことを振り返ってみて、”素”の状態と、家でのすがたと、趣味の仲間内でのすがたと、学校や会社でのすがたって、同じですか。
同じという人は、極めて少ないと思います。
人はそれぞれ、その場の雰囲気や状態に応じて、きっと〇〇のすがたを演じているところがあるんです。
それはある種、自分がその場に馴染むための”コンテンツ化”なのかもしれないですよね。
私も職場では、”ビジネスつるまう”みたいなピエロになっています。
これはたぶん、その要素を切り売りしているようなものなんです。

 

『コンテンツ化というのはあくまで事象の結果であって、いい悪いは一律では言えないものなんじゃないか』というのが、個人的にたどり着いた結論でした。
コンテンツ化大いに結構とか、私は絶対にコンテンツ化を認めないとか、方針はあっていいと思うんです。
ただ、今の社会の中で、そこまで尖れるかというと、なかなか難しさもあって。
いい塩梅で調整していくのが楽なのかな、と感じています。

コンテンツ化することの問題点や懸念点は色々見受けられますが、「そもそもコンテンツかとは別のところに問題があるんじゃないか」と思えることも多いので、当たり前のことにはなりますが、色々なことに注意しながら発信していきましょう、ということでしょうか。

 

 

専門家ではないので、あくまで「わからなかったので調べてみました!」的な毒にも薬にもならない内容になりましたが、少なくとも、うんうん考えながら書きましたので、少しは血が通ったテキストにはなっているかと思います。

どなたかの考えのヒントになりましたら幸いです。