つるまうかく

群馬在住ヲタクのネット書斎

麻倉ももLive Tour 2022“Piacere!”感想

昨日開催された麻倉ももさんのライブ、『LAWSON presents 麻倉もも Live Tour 2022 “Piacere!”』の渋谷公演(2日目)に行ってきました。
全体レポではなく、感想を書きたいように書いています。

 

「もちょ」の愛称で知られる麻倉ももさん。
ソロのライブとしては1stライブの「Peachy!」(2018年)、2ndライブの「Agapanthus」(2020年)に続き、このPiacereが3度目のライブとなりました。
2ndのAgapanthusもツアーが予定されていましたがコロナの余波で形式が変わったため、今回が初めてのツアーとなります。

もちょのソロライブに参加したのはAgapanthusが最初で。
コロナ禍の中で、できうる限りの世界観を作り込んだ見事なライブだったのを覚えています。
その時のレポがありまして、こちらはほぼ網羅して書いていますので、お時間あればご覧ください。

今回は、その時とは世間の様子もだいぶ変わっていました。
イベントが各地で復活しており、この日ですら”イベント被り”が多数発生。
言ってしまえばミューレ内でも多数発生。
「もしかすると、別のイベントの発表が早ければこのライブ会場にいなかったんじゃないか」と思ってしまうくらい。
そういう意味では、コロナ禍の中で針の穴を通すような偶然を重ねて参加したような前回と心持ちが変わってしまうのは、仕方のないことでした。

 

ライブは、とても良かったです。
最初に、このライブの世界観やテーマを表す一曲を持ってきて。
キラーチューンがたくさんあるこれまでの人気曲をちゃんと入れて。
レコ発(アルバム派が発売されたことに伴うライブ)であることもあって、「Apiacere」の曲はもちろん歌って。
2ndライブの時にやった曲もしっかりいれて、声が出せない中でも会場の盛り上がりをしっかり作って。
とても、バランスの良い選曲だなと思いました。

世界観なんです。
もちょのライブのいいところって。
「こういうライブなんだよー」って提示してくれて、その路線の中でちゃんと泳げるようになっている。
トラセの三人の中で、一番「何も知らない人を連れてきて楽しめる」のは、もちょだと思います。

なんでかって言うと、これが「声優のライブ」の理想形の一つなんですよ。
可愛らしくて演技もできる女の子が、可愛い曲を歌って、格好いい曲も歌って、客席を自分の色で染め上げる。
こんなライブをやりたいアーティストは、たくさんいるはずです。

なんか、できそうなライブなんですよね。
でも、このあたり前に思えるライブを作るのは、きっととても大変で。
ああ見えて
「体力には不安がない」
「歌もとても安定している」
「一度覚えたダンスは忘れない」
という、積み上げてきた努力があるからこそ、あのライブができるんだなあと改めて思いました。

自信ではあまり好きではないはずのハロウィンも、何か特別なものにしようと思って工夫したり。
ますます磨きの懸かる「妖刀」も、絶妙の切れ味で切断し切ることもなく。
MCの間ですら充足感が漂う。
冷静と情熱の間を目まぐるしく行ったり来たりする青い炎でもない。
自分を積み重ね続けて爆発し続ける稲光になった黄色い炎でもない。

ゆったりしていて、幸福感に満ち溢れていて、
しかしそのピンクは絶対に揺らがない。

桃色の炎が、そこには見えました。

 

今回のライブには、見えにくい部分で波風がありました。
ライブ前は、少しは気にしてしまいました。
でも、ライブを終えてからは、何にも気にならなかったんですよね。
ちゃんと、ライブのテーマに沿った、素敵なライブでした。
これは間違いないことです。

 

いいライブでした。

 

キョリ感

大丈夫 大丈夫 いつも通りでね
内心も距離感も測れないけど
側にいて ずっといて 毎日楽しもう
”大切”が幸せでありますように
続きますように

(ハコニワリリィ「キョリ感」)

昔から、距離感が測れない”子”でした。
それこそ、子どもの頃から。
一気に近づいて、近づきすぎて気まずくなって逃げ出す。
それはある意味、素直の証左だったかもしれない。

物事を俯瞰して見れるタイプの仲間には「アイツはこうだから」とオトナな感じで許容されていたけれど。
大半の人からは、うざったい存在だったんだろうなと思います。

そんな性分ですから、少しずつ丸くなってきたとはいえ、まだまだ距離感の探り方が下手で。
「コミュ症の割によく喋る」と言われたことがありましたが、まさに言い得て妙で。
今のこれでも、だいぶマシになったんです、これでも。

 

そんなですから、キョリ感のとりかたは全方向苦手で。
推し事なんてまさにそうですよね。
最初に書いたようなことを繰り返して、長く続かない。
場合によっては軋轢を生み出して、それで離れるケースも多々。
そんな光景を見てきた人も、周りに結構な数いるかなと思います。

 

その中で、長く続いている関係性って。
やっぱり、距離感を適切に保てているんですよね。
がーっと熱を上げ続けていると、やっぱり何処かで歪みが出る。
かと言って冷静に分析し続けると、急速冷凍してしまう。

”自然体”

そういられないというのが、私の致命的な欠点です。

 

常に熱を上げ続けるのではない。
でも、無関心にはならない。
日常の中に少しずつ、その対象が必須のものとして、混ぜ込まれている。
それが理想の”キョリ感”なんじゃないかと、最近は思っています。

長続きするんです。
その領域に行けた…というか、距離が取れた人って。

 

冒頭で、「阿波連さんははかれない」のエンディングテーマを引用してみました。
放送時は、TrySailのオープニングの方を強く意識していましたが、今聞いてみると、こんな優しい曲だったんだなと、改めて思いました。

 

最後にもう一度、このフレーズを。

 

"続きますように"

www.youtube.com

どこにでも光と影はある

色んなニュースが聞こえてきます。
最近はとみにマイナスのものが多くて、残念とか、がっかりといった感情を持ちがちで。
かといって、そこに立場を取って詳しく触れてしまうと、自分も被弾してしまいそうで、何かを明言することが、非常に難しいなと感じています。

 

前に、”絶対値”の話を書いたことがあります。
「リケ恋」を題材に、”好き”という感情は何かについて、自分なりに考えたものですが。

この中で、”正義とは”というテーマについても例として触れていて。
今回書くことは、それと少し近い概念になるんですけれどもね。

 

何事もそうなのですが、”絶対に良い行い”って、ないんです。
プラスの反対にはマイナスがあって。
誰かが良かれと思ったことの裏側や反対側には、そうでない事象がある。
「誰にとってもいい人」と言うのは存在しないし。
「誰に対してもいい子」という人も存在しない。
そう見えていたとしても、それは私だったり、私達といった狭い領域にはそう見えている、そう思えているだけで。
それをよく思わない人もきっといる。
だから、完璧の完璧に聖人君子の人はいない。
それは見え方、考え方、感じ方なんだと。
人もそうだし、命があるものも、私達がモノと捉えている物体も。
100%の認識を、みんなが共有できるわけでは、ないんです。

 

何か罪や間違いを犯した人を擁護する意図は全くありませんが。
人には正負や善悪の両面があるということ。
それは認識が大事な要素を占めていて、様々な見方がされうること。
そして、それに対して「これが正しい」「これは間違っている」と100%言える人はどこにも存在しないということ。

こういったことは、自分自身も心に留めて、過ごしていきたいと思います。
熱を帯びるとそういったことを失念してしまいそうな、今だから。

二つの方向性のお話

ちょうど、二つの方向性のお話を聞きました。
ちゃんと書くと、”二人”、ですね。


一人は、とにかくがむしゃらに、できることを少しずつレベルをあげて、なりふり構わず大成してやる、という人のお話。
もう一人は、ある意味もう大成していて、その後どう在るかという、円熟期を迎えた人のお話。

やっぱり、これから成り上がっていくんだ、てっぺんを取るんだという物語は魅力的ですし、応援したくなるし、応援しがいがあります。
日本人は甲子園(高校野球)が好きだ、と言われたりしますが、まさにそんな感じで。
それで命が潰えるわけではないのだけれど、人生をかけた戦い的なものに魅力を感じて、ややもすると負けているほうを応援したくなる。
そんな精神は、確かにあると思います。

ただ、それが華となるのは、熱狂の中にいるときだけで。
そのなかで、”てっぺん”を取れるのは、ほんの一握りです。
そして、その”てっぺん”を取ったとしても、いつまでも”てっぺん”ではいられない。

そうなったときに、二つ目のお話が、とても魅力的に感じたんですよね。

ある意味、明るくないかもしれない。
現実的で面白みにかけるかもしれない。
でも、人生を20年とかじゃなくて、70年、80年と考えたときには、間違いなく大事な感覚で。
人生、アンダンテに駆け抜ける生き方もあるけど、長いスパンで、ラルゴに歩む生き様もある。

若い人なら、そんなのが魅力的なのかいと思うかもしれないですけど。
すこーしおっさんになったこの身には、それがわかるようになってきました。

 

若いうちに、その円熟期の話なんか頭にある人はごくわずかです。
むしろ考えない方がいい。
でも、そこまで見えている人は貴重で、もし見えているのだとしたら、その視点や感覚は何らかの形で持ち続けてほしいなと思います。

いつからファンを公言するようになったんだろう

懐かしい時代の話を耳にする機会があってですね。
ふと、思ったんですよ。
いつから「私は〇〇のファンです」と言うようになったのかな、と。

 

じつは、昔から言ってはいたのですよ。
それこそ、ン十年も前から、何が好きだとか、誰が好きだとかいうはなしは公開しているんです。
プロフィールを公開する文化ってあって、その中とかで。
だから、最近始まったことじゃない、というのはあって。

ただ、それは書かれていただけのことで。
常日頃から、誰々のファンですだとか、その人に影響を受けて動くなんてことはしていなかった。
今でも、「棲む世界が違う」なんてことは言いますが、それ以上に、ファンと人気者の間って隔てる壁があったんですよ。
それこそ、こちらが起こした行動は全くあちらに影響しないくらいの。
住む世界どころじゃないな。
本当に存在しているのかがわからないくらいの、茫漠とした壁が。

 

誰かを応援したり、ファン活動めいたことをやっている私ですが、そのスタイルになったのは、2016年とか、17年とか、そのくらいです。
5、6年前なんですよね。
それまでは、もしかするとそういうことを公言しないことにこだわりを持っていたかもしれない。
当時のことははっきりとは覚えてませんが。
誰かを好きと言ったことで、何かデメリットが出てしまう、公平でいなければ、みたいな考えは持っていた気がします。

そのあたりのほんのりとした考えは割と長く続き、2018年位に瓦解したのかな、だいぶ確固たる考え方でした。
今はそこまで意固地にはなりませんが、根底としては何か才能を持った人はすごいというものがあるので、少し柔らかくなったのかも知れません。

 

公言していなかったときと、したあと。
明らかにしていなかったときのほうが、楽だったと思います。
ある意味では自由だった。
別に、公言したことで何か責任を負うわけではないのだけれど、色々広い世界の中で、ある種のポジションが決まってしまうところがあって。

そんな時代のことを、少し思い出しました。
どちらがいいとか、たぶんそんなのはなくて。
きっとそのときどきで、ポジションをしっかりしたいなとか、ジプシーでいたいなとか、そういう感じが変わってくるんでしょう。

この先はどうなるかわからないですけど。
「自分はこう」というスタイルにこだわりすぎないように。
ある意味適当なスタンスでいれたらいいな、と思います。