今日は田所あずささん・ころあずの楽曲、「クリシェ」について。
witterにはざっと書いちゃってるんですが、丁寧に書き残しておきたかったので。
「クリシェ」が頭の中で鳴り止みません。
最初に聞いた時点で、その爽快さが駆け抜けていき、いい曲だなあと思っていました。
とても綺麗なメロディラインで、「カメラのCMに使われそうだなあ」と思ったりするくらいの耳馴染みのよさでした。
そんな中、何度も繰り返し聞いていたこともあって、歌詞に目が行くようになりました。
私の場合、歌詞もとても大事に考えていて、歌詞から入る曲もあればメロディから入る曲もあるのですが、クリシェは後者だったんですよね。
歌詞をじっくり追ったのがまさに今日のこと。
青天の霹靂でした。
誰に証すのその永遠 そこになくたって
「誓います」の一言で始められるから
愛を試してみるんだ
薔薇色のくだらない日々笑い合える強さを
君が誓うその不確かな永遠 だけど
ありきたりな言葉で叶うよ 決して
幸せが映えないように
喜劇のように
最近のブログにもその議論について触れたことがあるんですけど、私は『永遠なんてありえないから、無責任なことは表明しない』という考えを持っていました。
それだけ、”永遠”とか”一生”という言葉は重い。
だから軽々しく使えない。
そう思っていた。
ただ、この曲は別の見方を提示してくれました。
「クリシェ」では、『永遠がそこになくたって』『不確かな永遠を誓う』と、やはり永遠を”ずっと未来永劫は続かないもの”と定義しているんです。
それは自分が考えていたことと、同じだったのですが。
ただ、このクリシェが歌っていることは、
それでも永遠を誓ったっていいじゃない、ということなんですよね。
そもそも、永遠が"あり得ないこと"だと定義すると、永遠という単語は存在しない。
「私の辞書に不可能はない」的な意味で。
そうすると、永遠という言葉には、不思議にも、”ずっとは続かない絵空事”というニュアンスが折り込まれている、と解釈することもできて。
だから、ころあずはこう歌っています。
永遠がそこになくても、「永遠(の愛)を誓います」と言葉で表明すれば、そこに永遠が生まれるのだと。
不確かな永遠だからこそ、喜劇のような何のことはないふつうの幸せが、自然とそこに生まれる、と。
これを読み解いたとき、本当に衝撃でした。
自分がいかに「永遠」という言葉に縛られていたのかがわかった。
これも、私自身がよく言っていることですけど、誰もが完璧常人ではないんです。
全員が最前線に立てるわけではない。
何でもかんでもちゃんとやらなくていい。
なので、その考え方からいえば、別に永遠という言葉に囚われる必要はないし、永遠というのも全うできなくたっていい。
「ずっと応援します」「一生付いていきます!」と言ったとして、それがどこかで途絶えてしまったとしても、それは完璧超人じゃないから。
人間だから。
もしそうなってしまっても、それは仕方のないことなのかもしれないな、と思いました。
矛盾だらけなんですよ、いちオタクなんて。
長らく、『永遠』という重い言葉を使うことを避けてきたので、そうしてきた自分を否定したくない思いは、あります。
ただ、今回のことに気付いてしまった今となっては、その気付きを否定できないんですよね。
それだけ、この『クリシェ』には、説得力がありました。
もし、私がこれから「永遠」的な言葉を多用するようになっても、生温かい目で見ていただければと思います。
それが軽薄に見えたとしても、その瞬間そう思っていることだけは確かで、そこにあるのは”ありきたりだけど喜劇のような 不確かな永遠”なんだと思います。
それでいいなと。