つるまうかく

群馬在住ヲタクのネット書斎

好きと閾値

理系科目のテストは押し並べてできなかったバリバリの文系なのに、なぜか理系の言葉で説明したがるふしがあります。
昔言われたことによると、点数が取れないだけで、私の考えは理系だそうです。
屁理屈をこねくり回しているだけな気もしますが・・・

さて、本題の「閾値」。
”いきち”と読んで、”しきい値”とも言われます。
何かを数値で判断するときの境界、つまり”しきい”ですね、それになる値のことで、この数値を超えると一気に化学反応が進むとか、そういう説明に使われます。
水が氷になる閾値は0度、水が蒸発する閾値は100度、みたいな感じですね。

で、何が書きたかったかというと、好きにも閾値があるなあという話です。
これはなんでもそうなんですけど、好きにもレベルがあるじゃないですか。
世の中の物事はたいていが好きか嫌いかで判断できるわけで、そこで考えてしまうと多くの者が”好き”になってしまう。
だから私達は、好きなものの中で或る程度のラインを越えたものを『好きなもの』『好きなこと』といって、昔で言えばプロフィールに書いたりだとか、ファンを名乗った理だとか、宣伝する・応援するという積極的な行動に出たりします。

ただ、好きって自分では判断が付きづらくもあって。
好きなものを考えていくとき、ズバ抜けて好きなものばかりであれば『これがめちゃくちゃ好き!』と言い張れるのですが、『好きは好きだけど、好きと言っていいのだろうか。ファンを名乗って浅すぎると思われないだろうか・・・』みたいに悩んだりします。
そこの判断がまさに”閾値”なんですが、そのラインの定め方に、毎度頭を悩ませています。

そういうときは、周りの人に聞いてみると、かえってめちゃくちゃわかりやすくて明快な答えが返ってきたりもします。
「え、あれだけ言っててファンじゃないの?」と言われたら、それは閾値を超えた好きだってことですよね。
自分のことは、自分が一番分からないものです。

 

私の場合を考えると、コンテンツや作品についての判断はわりとはっきりしているなあと思います。
感情が絡まない部分についてはサバサバしているのか、わりとはっきり言う性格も手伝って、好き嫌いをわりと明言する傾向があります。

ただ、そこにパーソナルな部分が絡んでくると、一気にはっきりしなくなります。
基本的に人を嫌いになろうとはしないし、ある種自分のできないことをやっている人は尊敬の念を持つという性格でもあるので、パーソナルな部分での判断がしづらいというか。
そこを評価していいのか、という面倒くさい、ねちっこい考え方があるんだと思うんですよ。
だから一気にワカラナクなって、内省のほうに進んでしまい、堂々めぐりする。
私の『誰が好き』とか『誰のファン』というパーソナリティは、自分から言い出すというよりは、周りの人から言われて初めて気付いたというのがわりと多かったりします。

 

・・・なんだか話が迷走しました。

というわけで、閾値ですね。
好きに閾値はたぶんんあるのだと思うんですけど、その値はきっと一定ではなくて。
めちゃくちゃ多い数の変数が掛けられていて、いかようにもラインが上がったり下がったりするものなんでしょうね。
だから難しいし、何を好きと言っていいのか、ファンと言っていいのかは、永遠の命題なわけです。

ただ、これで本当に強いのは、そんな七面倒くさいことを考えずに、周りがどう思うかを一切考えずに今自分が好きかどうかで判断できる人なんですよね。
それは本当に強い。
ただ、そこまでストイックになりきれないことは分かっていて、今日も閾値の上げ下げに頭を悩ませる日々です。

 

 

ちなみに、閾値Google先生に聞くと返ってくる説明が、こちらでした。

感覚や反応や興奮を起こさせるのに必要な、最小の強度や刺激などの(物理)量。

冷や汗が出るくらい、とてもドンピシャで説得力のある、素晴らしい説明でした。
Google先生、おそるべし。