つるまうかく

群馬在住ヲタクのネット書斎

自分にあった応援をしたい

応援される側にとってうれしい応援の仕方は何だろう。
そんなことを、わりと頻繁に考えている気がします。

けっして、真面目なのではありません。
たぶん、自分に自信がなくて、やっていることに確信が持てないから。
不器用だなあと、自分自身ですら思います。

そんなことが頭の片隅にあって。
本来、聞くべきではない話題だったのかもしれませんが。
声優さんに訊くことができる機会に、きいてみました。

 

帰ってきた答えは、整然としていて、納得のいくものでした。
「たまに情報を発信したときに、反応してもらえるとうれしい」と。

 

応援の仕方は様々あって、どれもが正解です。
表舞台に立つ場所にはできるだけ足を運ぼう。
その人がかかわるものなら何でも買おう。
できるだけ多くの人に布教して、ファンの数を増やそう。

ただ、それを突き詰めすぎたり、方針をきっちり固めすぎることで、システマチックになってしまったり、大きなことをやること自体が目的になったりもして、自分の首を絞めてしまうこともあります。

私は、一生働かなくてもいいぐらい大金持ちでもなければ、悠々自適で時間に余裕がありまくりますという人間では、残念ながらありません。
だから、自分ができる限りの応援というスタイルを考えていて。
ただ、その”適度な””負担の少ない”応援が何かといわれると、難しくて。

 

なので、今回もらった答え、上では一般的な言い方にしましたが、つまり『ツイッターで呟いたらリプとかRTとかして』という話なんですけど、それでいいんだ、と。
逆に、愛が重くなりすぎると逆に枷になったりもしますから、そのくらいが適度な応援なのかもしれないなと思いました。

大事なのは、気持ちなんですよね。
その行動をしたときの、本心。

 

人間、バイオリズムは変動します。
例えば、単惜しでこの人しか応援しません!という人でも、その思いは変わらなくても、変な話、体調は変動します。
体調を崩すこともあれば、仕事で疲れてくたくたで力が出ないことだってある。
そんなとき、義務で何かをしようとしても、思いが乗ってこなかったりする。

 

やることは、大きくなくていいんです。
大きくてもいいんですけど、大きくなればなるほど、色々な人の思惑も絡んでいって、思わぬ方向の主張に利用されたり、勝手に反感を持たれたりもあったりする。
そのあたりがうまくコントロールできればいいのですけれども、裏目に出てしまうこともある。

小さくても。
誰かと比べて抜きんでて居なくても。
心がこもっていさえすれば、きっと届きます。
もし相手に届かなくても、その尊い行動を見てくれている人は、きっといるはずです。

 

あたらめて、手近でできることを、心のままにやるのでいいなと思いました。
前に、「いいねとリツイート」をすることについて、戦略的な見方から書いたことがありますけれども、それもどちらかというと戦略的な見方ではなく、本心にのっとって適宜やっていくのがいいのかもしれません。