つるまうかく

群馬在住ヲタクのネット書斎

共犯者の話(2)

少し前に、「アイドルとファンは共犯者だ」というコラムを見ました。
その時は、何か書こうと思ったんですけど、”共犯者”というワードがあまりにも重くて。
濁す形で使ってしまって申し訳なかったんですけど、スネオヘアーの「共犯者」という曲の紹介をすることにしました。

整理ができたわけじゃないんですけど、ふとこれについて書こうと思い立ったので、日付が変わるギリギリのところですいませんが書きます。

 

ステージからキラキラを届けて、「みーんなが好き」というアイドル。
それぞれがそのアイドルのことを好きで駆けつけてるファン。
それぞれが自分の思いのままに動いたら、その空間って無法地帯になるはずなんです。
でも、そうにはならなくて。
そうにはならないように、場には独特の雰囲気がしかれていて、皆が役割をわかっている。

そこって、ドラマでも、映画でもないはずなんです。
お芝居でも朗読劇でもない。
最初から配役が決められているわけでもない。
でも、アイドルはアイドルを演じて、ファンはファンを演じる。
その関係性は、たしかに「共犯者」なのもしれないなと。

その例ではアイドルとファンの関係性が挙げられていましたけど、別のところでも同じようなところはありますよね。
学校だったり、会社だったり、家だってそうかもしれない。
それぞれがそれぞれの役割を演じて、そのまま生きているところがある。

 

何か具体的な罪を犯しているわけでもない。
ただ、おそらく”素の姿じゃない”というところが、罪ってことなんだと思います。
皆が、少しずつ素じゃない姿になって。
ある意味で役割を演じることで、その場が成立する。
それを、たぶん後ろ向きに捉えれば、共感なんだろうと。

それが望ましくないってことではありません。
必要な共犯関係もあります。
ただ、ひとつ言えるとすれば、それを構成するのは明るくて前向きで、辛さがないことが前提だと思うんですよね。
もし、その関係性に違和感を持ってしまったり、色々こらえて限界が来てしまったりしたら、無理に役割を演じなくてもいいんだろうなと。

 

社会的な生き物ゆえの、ある種贅沢な悩みなのかもしれません。
こんな細かいことは考えなくていいと思う。
ただ、そんな考え方もあるんだなと。
いろいろな思考のエッセンスにはなりそうです。