つるまうかく

群馬在住ヲタクのネット書斎

もっと応援の力を信じてみたいから

駆け出しのビギナーは、応援しやすい。
応援する場所も、数も少ない。
テクニカルなものではなく、シンプルな応援の方法でいい。
裏返せば、シンプルだからこそオーソドックスなものでいい、と言えるのかもしれません。
それをしっかりしていけば、土台のような応援になるし、そのシンプルな応援を突き詰めていけば、よりその密度も濃くなっていく。
その応援はきっと、背中を押される側にとって本当に心強い力になっているのだと思います。

 

しかし、その応援ができなくなってしまうときがあります。
数が、チャンネルが増えていく。
シンプルでよかったものが、物量的にも把握しきれなくなっていく。
幅が広がれば、テクニカルなものも必要とされてくる。
同じように応援する人が増えてくる。
自分と同じような存在が増えててくる。

 

駆け出しの頃のような、応援している人が少なかった頃のような応援ができなくなることがあったりします。
それは、往々にして『応援している側の”推し疲れ”』と形容されることが多いです。
でも、原因はきっと、それだけではなく。
応援される側の活動の幅が広がっていたり、人気がかわっていたり。
歩むベクトルが少し変わっていたり。
そういった要素も、決して少なくなく影響しているのだと感じます。

 

人気商売とはいえ、ファンと表舞台に立つ人の関係性はあやふやなものです。
作品の作り手と受け手、ビジネス上の供給者と需要者という関係性ではいられるでしょう。
でも、本来、そこに”応援する側、される側”という役割は、明確には存在しません。
存在しなくても成り立ちうる、というのが正確なところでしょうか。

 

それでも、きっと。
私たちはその応援とか、ファンとか、そういう関係性、存在、役割、行為を信じています。
プリミティブなところまで突き詰めてしまえば、必須ではないかもしれない。
でも、それがあることで、ほんの少しでも力になっていればいいなと思う。

 

ファン一人ができることなんか「ほとんどない」レベルでほんの僅かです。
応援の歴が長くなればなるほど、その事実を見たくなくなるものです。
応援していることを見失ってしまったときは、一度、最初に立ち返ってみるのもいいかもしれません。
最初の頃にやっていた、シンプルなことでいい。
好きになったその最初のときやっていたことでいい。
最低限、それをやっていれば、きっとあなたはちゃんとしたファンだし、誰かを応援していることになる。

 

『応援』のレベルが、”ファンであること”のレベルがどんどん増していっていると感じる今だからこそ。
いま一度、原点を見てみませんか。

お金を沢山払っている人や、イベントを全通している人や、TOと呼ばれている人や、すごい企画をやっている人や、ファンとして特徴的で目立つ人などが、えらいわけではありません。

「好きです!」
「応援しています!」

その一言でいい。
その言葉こそ、かけるべき人に、届けてください。