つるまうかく

群馬在住ヲタクのネット書斎

”楽しい”が同居する応援を

誰かや何かのファンとして行動するとき、『好きなら応援するよね?』といったスタンスを感じることがあります。
最近は「推し」や「推し活」といったワードが一般のものになったりと、そういう時代になってきたというのもありますが。

 

少し前を振り返ってみると、日常生活のバランスを崩しながら趣味に傾倒している人は”オタク”と呼ばれました。
正確には”ヲタク”表記だった気もしますがそれはさておき。
好きなことを「好き」と言うことだったり、自分の納得がいくまで突き詰めて調べるなんかは今でもそんなに変わらないと思うのですが。
「応援する」「宣伝する」
という点においては、今とだいぶ違うなと感じるところがあって。

好きなものを自分の範囲の外で必要以上に宣伝して回ることは、”ネット上の荒らし"のように捉えられたり、ただ目立ちたいだけの、当時のワードで言えば”イタい人”と見られて、煙たがられるような行動でもあったんです。
それは、ある意味オタクが一般の中に認められていった、容認されていったことともある意味連動するとは思うのですが、徐々に受け入れられていき、変なことという認識ではなくなりました。
重ね重ね、『時代』なんでしょうね。

 

何かを好きでいることが、応援することと直結するようになった今。
ややもすると、好きと応援のバランスを崩して、応援することが義務的なものになりつつあるような気がします。
それを肌で感じることもそこそこあります。

でも『自分がそうなっているな』と感じたときは、一呼吸おいて今の状況を冷静に見ることも必要なんだなあと思うんです。

 

私自身は、じつは「作品やコンテンツのオタク」です。
人を応援していたりもするけど、基本は作品やコンツのファンです。
作品を見て楽しみたい。
作品から感動を受け取りたい。
作品や曲に元気をもらって、自分の原動力にしたい。
それが、私がオタクにカテゴライズされるような生き方をしている、根っこの部分なんですよね。

だから、もちろん人も応援するけれども、応援すること自体が目的になってしまったら絶対にバランスを崩すと思っています。
たぶん、過去に何回か盛大に崩してるし、ちょこちょこ小規模の崩しもする。
誰かを応援するというか支えるということは、自分を自分で支えるべきエネルギーを誰かに流しているということなのかもしれません。

応援、楽しみましょ。
楽しめないと思ったら、周りを気にせずひと呼吸置きましょう。
それで誰かから責められることはないはずです。
もしそうだったとしたら、”そういう世界だった”というだけのことです。

 

最近は、だーっと書いたブログを見直す過程で
「や、これは外に出すべき文章じゃないな」
と思って結局更新しないことも多くなったんですけど、この文章はかなり荒いし適当だしまあ反感買うようなこともいっぱい書いてる気もするんですけれども、なんか熱がごっそり乗った感じになったので、あえて確認や推敲をせずにそのままスパッと投稿してみることにします。

 

誰かを応援することが、自分の人生をカラフルに色づけてくれる楽しいことでありますように。

 

 

それでは。